1927年-1963年、サルファー・デル 第2期
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「サルファー・デル」の記事における「1927年-1963年、サルファー・デル 第2期」の解説
サルファー・デルの本塁後ろの観客席は南西にテネシー州会議事堂に面していた。そのため打者は午後に落ちる太陽の光に苦労した。1926年のシーズン後、一旦球場全体を取り壊し、鉄筋コンクリート製で4番通り北沿いに本塁を置き、北東を向くようにした。 サルファー・デルの評判が悪かった外野は再編成された。新たな外野フェンスまでの距離はレフトは334フィート(102m)、センターは421フィート(128m)、ライトは262フィート(80m)となった。ライトは短いが、テラス席や坂があり、特にライトとセンター外側では急傾斜している。ライトのテラス席の上部は22 1/2フィート(7m)の高さにあった。木製の外野フェンスは16フィート(5m)の高さであった。ライトのファウル・ポールからセンターまでのフェンスは186フット(57m)で、30フット(9m)のスクリーンがセンターまで22 1/2フィート(7m)にまで下がっていた。手動のスコアボードはレフトからセンターの間にフィールドにはみ出るように設置してあった。客席数は7,000となった。座席は指定席はオレンジ色、その他は緑色であった。改築後初の試合はアメリカン・アソシエーションのミネアポリス・ミラーズとのエギシビション・ゲームで、5対3でヴォルズが勝利した。 球場は複雑な外野線により選手たちから「サッファー・ヘル」(地獄で苦しむ、の意)とニックネームがつけられた。ニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルースがヴォルズとのエギシビション・ゲームのためにやってきて、ライトを拒否してレフトへ移動したと報じられた。 1931年、照明が追加され、5月18日、ヴォルズはモービル・マリンズと初のナイター戦を行なった。8対1でヴォルズが負けた。1938年、客席数が8,500席に増築された。 サルファー・デルでのヴォルズのホーム・ゲームの他、1942年、マイナー・ニグロリーグのナッシュビル・スターズもここで試合を行ない、1945年から1951年までナッシュビル・ブラック・ヴォルズ/カブスもここで試合を行なった。 1951年、外観、回転バー、レンガ壁、広めの出口など改修を行なった。新たな正面入り口には「1870年からの最も歴史ある球場、サルファー・デル」と記された。ナッシュビル・ヴォルズが所有し、1959年、ハーシェル・リン・グリア率いる公団ヴォルズ社となった。シーズン開幕前、報道関係者室の隣にオルガン・ブースが設置され、座席の改修および再塗装され、その他の補修も行われた。 1963年9月8日、ナッシュビル・ヴォルズの最終試合が行われ、サルファー・デル最後のプロ野球の試合となった。1961年のシーズン終了後、サザン・アソシエーションが終了し、1962年、ヴォルズは活動休止し、その後ダブルAサウス・アトランティック・リーグに参加した。ダブルヘッダーでリンチバーグ・ホワイト・ソックスと対戦し、6対3、2対1で勝利した。1963年のシーズンの後、ヴォルズは解散した。
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