ケルン大司教としてのブルーノ
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「ケルン大司教ブルーノ」の記事における「ケルン大司教としてのブルーノ」の解説
ケルンでのブルーノの地位はほとんど王侯に比すものであった。教会諸侯としてのケルン大司教領の基礎はこの時期に確立した。オットーはブルーノとその後継者に対し、通常は王の特権とされるさまざまな権威を与えた。砦の建造、市場の設置、貨幣の鋳造、ユダヤ人への保護と引き換えに徴収される特別税や市場での取引、ライン川沿いの関所などからの税を含むさまざまな徴税権などである。3世紀後のヴォーリンゲンの戦いまで、ケルン大司教は聖俗双方の支配者としてこの地方に君臨したのである。 ケルンにおけるブルーノの大司教宮廷は、この時代におけるドイツの知的・芸術的中心地となった。対して皇帝であるオットーの宮廷は、そのような文化的空気に乏しく、より軍事的色彩を帯びていた。この時期のケルンを中心とした文化活動はときに「オットー・ルネサンス」と呼ばれる。ケルンのブルーノの宮廷からは、次代のドイツの教会の指導者たちが多く輩出された。 中世のケルンに対するブルーノの影響は甚大である。ケルン大司教宮殿の造営に加え、ブルーノはケルン大聖堂をローマのサン・ピエトロ大聖堂(このときの聖堂は1248年に消失し、立て替えられて現在に至る)に比肩するまでに拡張した。またブルーノは古いローマ時代の城壁とライン川に挟まれた区域を要塞化し、3つの教会堂を建立した。先述の地区にトゥールのマルティヌスに捧げる聖堂、北側の市壁の外に使徒アンドレに捧げる聖堂、また市の郊外南西には聖パンタレインに捧げたベネディクト会の修道院である。 ブルーノはトロワから聖パトロクルスの聖遺物を移し、964年ゾーストのパトロクロス大聖堂(St Patrokli Dom)に埋葬した。今日も聖パトロクルスはその場所で崇敬されている。
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