ケルン裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:16 UTC 版)
「セルジュ・クラルスフェルト」の記事における「ケルン裁判」の解説
1971年以降、クラルスフェルト夫妻はまずはフランスにおけるユダヤ人強制移送を主導しながら長く処罰されなかった主要な元(ドイツ人)親衛隊隊員を裁判にかけるために闘っていた。イスラエルに連行されたアイヒマンが、1961年にナチス戦犯責任を問われて裁判にかけられ、死刑判決が下されたことで、60年代から70年代にかけて全世界でナチス戦犯責任の追及に対する関心が高まっていたが、これを取り締まる法律が整備されていなかった。クラルスフェルト夫妻の闘いがようやく実を結んだのが、1979年10月23日から1980年2月11日までケルン地方裁判所で行われた3人の元親衛隊隊員 ―― フランスのユダヤ人数千人の検挙と強制移送を主導したクルト・リシュカ、ボルドーおよびパリのユダヤ人一斉検挙を主導したヘルベルト・ハーゲン、1942年7月のヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件に関与したエルンスト・ハインリッヒゾーン(フランス語版) ―― の裁判においてである。この結果、リシュカは懲役10年、ハーゲンは12年、ハインリッヒゾーンは6年の判決を下された。
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