ケルン=ミンデン鉄道と国有化
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「ケルン - ギーセン線」の記事における「ケルン=ミンデン鉄道と国有化」の解説
プロイセン王国はルール地方の石炭産地、ラインラントの製錬工場およびジーク川・へーラー川・ディル川・ラーン川流域の鉄鉱石鉱山を結ぶ鉄道建設に関心を持っていた。ヴェツラーとその郊外はプロイセンの飛び地で中核地域とよく連結された。しかし現在のラーン=ディル郡は19世紀中期にナッサウ公国領であった。ナッサウは自国領内の鉄道敷設許可の条件としてプロイセンがライン川右岸の鉄道をラーンシュタインからケルンまで延長するのを要求した。プロイセンは結局ニーダーラーンシュタイン - コブレンツ区間の連結線建設を義務として引き受けて、ナッサウは1860年自国領の鉄道建設を許可した。 ケルン=ミンデン鉄道(Cöln-Mindener Eisenbahn, CME)はドイツ - ギーセン区間の鉄道敷設に関心を表明して敷設権を獲得した。建設は既存のCMEのドイツ - ミンデン線の分岐点で開始された。ドイツェルフェルトの操車場、車両基地が整備施設、建物とともに建設されて、ルール地域方面の線路と直接に連結されることとなった。鉄道建設は地勢のため順調ではなくて、ジークブルク - ベツドルフ区間ではジーク川の穿入蛇行のため、多数の鉄道橋とトンネルが必要であった。ベツドルフ - ディレンブルク区間ではループ線が、ドイツの中部山地を貫通するために、15 ‰の低い勾配で建設されねばならなかった。総工事費は2650万ターラーであった。 1859年1月1日にドイツ - ヘネフ区間が開業された。全体区間は1862年1月12日に完工され、すぐにケルン=ギーセン鉄道の名称が使用された。1861年1月10日にベツドルフ - ジーゲン区間が開業された。ディル川流域の住民達が最初には鉄道建設に対して反対意見を示したものの、この路線は地域経済の上むきに寄与して通勤手段として多く活用された。ヴェツラー市の場合、ラーン谷線との接続のために駅が新市街地(Neustadt)の外郭で建設されねばならなかった。 交通量の増加と軍事戦略の重要性のため、1871年まで複線の線路が全区間に備えられた。1879年12月20日にケルン=ミンデン鉄道の国有化に関する法律が公布され、1880年1月1日付でプロイセン邦有鉄道がこの路線を運営することとなった。 1909年ジーク川の洪水の時に多数の鉄道橋が破壊された。ヘルヒェンにおける鉄道橋は特に激しく破壊され、基礎から新たに再建されねばならなかった。1914年にドイツ軍兵力をアイフェル山地の戦線に配置するために軍用列車が多く運行された。1915年ジーゲン - ハイガー区間の開通でベツドルフ - ハイガー区間は、より不利な地勢のため、その重要性を失った。高級な旅客列車も貨物列車も新たなルーだースドルフトンネルを通じてギーセンとライン=マイン地域の方向に通行した。
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