自国領内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 01:10 UTC 版)
自国の民衆に威厳を見せつけるために立派な服装を身に纏い、人を大量に雇った上で実際に必要な人数より多く見せることがよくみられた。これは城下町を離れるまで続けられ、町はずれに出ると雇われた人々の任務は完了となり、人数は約半数程度に減る。それ以外の従者たちは旅行に適した服装に着替え、宿泊予定のある宿場町を目指すこととなる。 移動手段は陸路が殆どであるが、島津藩のように船と陸路を併用して行う場合もあった。陸路の場合、庶民は行列が進んでくると、道を譲らなけばならず、馬に乗っていた場合は必ず下馬しなければならなかった。また、自国の大名行列であれば土下座を行った。飛脚や出産の取上げに向かっている産婆を除いて、行列の前を横切ったり、列を乱したりする行為は特に無礼な行為とされ、当時の国内法である公事方御定書(71条追加条)によってその場で「切捨御免」も認められていた。このため、大声で行列の到来を知らせるために徳川御三家の場合は「下に、下に」と叫び、それ以外の諸藩は「片寄れー、片寄れー」、又は「よけろー、よけろー」という掛け声を用いて道を譲らせた。制度をよく理解していない外国人がトラブルに巻き込まれるケースもあり、1862年には島津久光の行列を妨害したとしてイギリス人が殺傷される生麦事件が発生し、薩英戦争の引き金となっている。
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