フランクフルト国民議会の終焉
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「ドイツにおける1848年革命」の記事における「フランクフルト国民議会の終焉」の解説
詳細は「ランプ議会 (ドイツ)(ドイツ語版)」を参照 国民議会は、オーストリアとプロイセンが自国の議員を召喚し、討論クラブ同然となった。諸侯は自国領内の反乱を鎮圧すると、プロイセンの例に倣って、自国の議員を国民議会から召喚した。圧倒的軍事力をもつプロイセンだけが諸侯による武力弾圧からフランクフルト国民議会を守ることができたが、プロイセンは自国の利益を考えていた。 フランクフルト国民議会は、メッテルニヒを失脚させたオーストリアのウィーン三月革命を一つのきっかけとして創設され、土地の圧制者に反抗してきた伝統のある南ドイツから最も強い支持を得たが、オーストリアがイタリアにおける1848年革命(英語版)を鎮圧した後、ハプスブルク朝はドイツ諸邦に干渉する用意ができ、軍隊を召集できず支持の広がりも欠く国民議会はオーストリアの力に抗うことができなかった。 急進的な議員は1849年5月31日にシュトゥットガルトへ移ることを余儀なくされ、そこで6月6日から同18日までランプ議会(残部議会)を開いたがこれもついにヴュルテンベルク軍によって解散させられた。
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