オーストリアとプロイセンとは? わかりやすく解説

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オーストリアとプロイセン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「オーストリアとプロイセン」の解説

オーストリア大公国」、「ハプスブルク君主国」、および「プロイセン王国」を参照 ヴェストファーレン条約によって帝国300上の領邦国家帝国自由都市集合体となり、その中には極めて小規模な領邦存在していた。一方ハプスブルク家オーストリアその他の世襲公領ボヘミア王国西ハンガリー王国との同君連合統治し、このハプスブルク君主国における絶対主義国家形成へと向かう(オーストリア絶対主義)。 1657年フェルディナント3世死去するが、皇位継承者だったローマ王フェルディナント4世は父に先立って既に死去していた。皇帝選挙ではマザラン枢機卿ハプスブルク家排除してフランス王ルイ14世将来皇帝とすべく、中継ぎとしてバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアを推す動きもあったが、結局フェルディナント3世次男レオポルト1世選出された。しかしながらこの為レオポルト1世選挙協約諸侯対すより一層譲歩余儀なくされている。 1663年レーゲンスブルク帝国議会開催されたが、この帝国議会以降議決散会もされずに帝国消滅するまで継続して永続的帝国議会」(Immerwahrender Reichstag)と呼ばれるようになり、諸侯使節会議化してしまった。 レオポルト1世治世帝国度重なるルイ14世領土的野心オスマン帝国脅威直面している。1667年始まった一連のネーデルラント継承戦争帰属戦争オランダ侵略戦争)でフランススペインネーデルラントそして神聖ローマ帝国戦い仕掛けナイメーヘンの和約スペインからフランシュ=コンテ帝国からはフライブルク・イム・ブライスガウその他の領土獲得しその後ルイ14世東部国境地帯の「再統合」を推し進め1681年にはシュトラースブルク(ストラスブール)を占領した1683年ルイ14世からの中立約束得たオスマン帝国軍事行動起こし20兵力をもってウィーン包囲した第二次ウィーン包囲)。オーストリア軍包囲戦を耐え抜き到着したポーランドヤン3世ドイツ諸邦援軍オスマン帝国軍決定的に打ち破った以後オスマン帝国との戦争16年渡り続くが(大トルコ戦争)、1697年プリンツ・オイゲン率い帝国軍ゼンタの戦い大勝し勝敗決した1699年カルロヴィッツ条約結ばれてオスマン帝国ヨーロッパ領土割譲余儀なくされ、オーストリアオスマン帝国領ハンガリートランシルヴァニアスロヴェニアクロアチア獲得した一方ルイ14世オーストリアオスマン帝国との戦い乗じて1688年プファルツ選帝侯領侵攻し多大な被害もたらしたプファルツ継承戦争)。だが、フランスオーストリアドイツ諸侯スペインオランダスウェーデンそしてイギリス加わったアウクスブルク同盟諸国敵対することになり、戦争長期化して1697年終結したが、フランスプファルツのみならず以前戦争獲得した領土大半放棄せざる得なくなったレイスウェイク条約)。 この時期スペイン王カルロス2世生来病弱の上に子がなく、スペイン・ハプスブルク家断絶しようとしていた。レオポルト1世オーストリア・ハプスブルク家、そしてルイ14世ブルボン家ともに有力な王位継承権有しており、スペイン王継承を巡る対立が高まる中、カルロス2世ルイ14世の孫アンジュー公フィリップ後継者指名した1700年カルロス2世死去するルイ14世アンジュー公フィリップスペイン王継承同意するが(スペイン王フェリペ5世)、オーストリアイギリス初めとする諸国がこれに反対してスペイン継承戦争勃発する。この戦争では帝国諸侯のほとんどが皇帝軍に加わったが、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルと弟のケルン大司教ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンフランス味方して皇帝軍と戦っている。 ブレンハイムの戦いオーストリアイギリス軍フランスバイエルン軍勝利するものの、戦争膠着状態に陥り、1713年1714年それぞれユトレヒト条約ラシュタット条約締結され各国フェリペ5世王位承認する見返りスペイン多く領土割譲することで終わっている。オーストリアスペイン領ネーデルラントミラノナポリサルデーニャ獲得したレオポルト1世戦争中1705年死去しており、ルイ14世戦争終結から程ない1715年死去した。 この時代聖俗諸侯領では絶対主義化が進行していた。フランスオスマン帝国脅威受けていた中小領邦はその存立守護する存在としての帝国国制を必要としていた。特に西南ドイツでは帝国クライス地域自治機関として機能しており、クライス議会活発に活動しクライス軍制はその防衛機能ある程度だが果たしている。 ハプスブルク家オーストリアフランスオスマン帝国との戦争行いつつ大国としての地位固めている間に、帝国内ではブランデンブルク=プロイセン台頭し始めていた。1618年プロシア公領ブランデンブルク辺境伯領との同君連合成立したホーエンツォレルン家ブランデンブルク=プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の治世ヴェストファーレン条約によって東ポメラニア獲得し戦後ポーランド王国影響力排除するとともに等族との対決打ち勝って絶対主義に基づく統治体制構築していた。この間に大選帝侯は、スウェーデン影響力排除して海上にも進出したブランデンブルク領黄金海岸)。そして、1701年フリードリヒ1世スペイン継承戦争オーストリア味方する見返り帝国領域外での戴冠承認を受け「プロイセンの王」(König in Preußen)を名乗る次代フリードリヒ・ヴィルヘルム1世兵隊王)は軍制改革実施してプロイセン王国軍事国家となさしめた。 この時期プロイセンブランデンブルク以外にもザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世ポーランド・リトアニア共和国王位アウグスト2世)をハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒイギリス王位(ジョージ1世)をそれぞれ帝国領域外獲得している。 スペイン継承戦争並行して東方では大北方戦争1700年 - 1721年が行われており、スウェーデン北方同盟諸国ロシアザクセンポーランド=リトアニアデンマーク=ノルウェー:後にプロイセンハノーファーイギリスが加わる)とが戦いザクセン選帝侯領スウェーデン領ポメラニアなど帝国領域も戦場になったカール12世率いスウェーデンは、攻勢出てバルト海沿岸諸国圧倒するも、ロシア国内での大敗機に優位失った長期化した戦争は、ロシアポーランドまで影響力伸張し、さらに帝国内での影響力失ったスウェーデン最終的な敗北終わったストックホルム条約締結により、ハノーファー選帝侯プロイセン王国帝国北部において勢力拡大した)。勝利したロシアのツアーリ・ピョートル1世1721年皇帝インペラトル)を名乗りロシア帝国成立したスウェーデンバルト海世界覇権失いロシア代ってヨーロッパの列強一角として浮上したニスタット条約)。ロシア皇帝東ローマ皇帝後継者主張しており、1453年東ローマ帝国滅亡して以来、約300年ぶりにキリスト教世界二人皇帝並び立つこととなったヨーゼフ1世の短い在位経て1711年即位したカール6世対外戦争によってハプスブルク家領土拡大したが、唯一の男子夭逝して女子しか子がなく、この為1724年カール6世皇女マリア・テレジア後継者とすべく国事詔書(Pragmatische Sanktion)を出し諸国にこれを認めさせるために多く外交的領土的譲歩をしている。 マリア・テレジア(左)とプロイセン王フリードリヒ2世(右) だが、1740年カール6世死去するフランス王ルイ15世プロイセン王フリードリヒ2世大王)を初めとする諸国マリア・テレジアハプスブルク家世襲継承異議唱えオーストリア継承戦争勃発したまた、帝国法は女子皇帝認めておらず、このためハプスブルク家マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン皇帝選出目論んでいたが、選出されたのはフランス結んだバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトヴィッテルスバッハ家であった1742年カール・アルブレヒト神聖ローマ皇帝カール7世として即位し、彼が1437年即位したアルブレヒト2世以降唯一のハプスブルク家以外の皇帝である。だが、即位直後バイエルン首都ミュンヘンオーストリア占領されカール7世フランスの支援十分に得られないまま各地転戦するうちに僅か3年在位1745年死去したオーストリアバイエルンとの和議成立して次の皇帝にはマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン選出された(神聖ローマ皇帝フランツ1世)。1748年アーヘンの和約成立してマリア・テレジアハプスブルク家世襲継承承認させることに成功したが、シュレジエンプロイセン割譲せねばならなかった(シュレージエン戦争)。 英明な君主であったマリア・テレジアオーストリア内政改革進め一方シュレジエン奪回するべく外交展開してロシアザクセンそして長年宿敵だったフランスとの同盟成立させ対プロイセン包囲網構築した外交革命)。1756年勃発した七年戦争イギリス同盟したフリードリヒ2世圧倒的な国力の差にもかかわらず幾つかの戦いで勝利して持ちこたえるが、1761年にはイギリス援助打ち切られ苦境陥った。だが、1762年フリードリヒ2世信奉者だったピョートル3世ロシア皇帝即位するロシア戦線離脱しフリードリヒ2世危機脱したオーストリアプロイセンそしてザクセンとの間で1763年締結されフベルトゥスブルク条約により、プロイセンシュレジエン確保してヨーロッパの列強のし上がる。これがドイツ覇権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立の始まりとなったドイツ二元主義)。 フランツ1世1765年死去し、後を継いで皇帝即位した嫡男ヨーゼフ2世は母マリア・テレジアハプスブルク君主国共同統治入ったマリア・テレジアヨーゼフ2世啓蒙的諸政策を実施してオーストリアにおける「啓蒙専制主義」を確立した1780年マリア・テレジア死去して単独統治入ったヨーゼフ2世宗教寛容令修道院の廃止死刑制度廃止といった急進的な啓蒙改革ヨーゼフ主義)を実施するも、反発を受け治世晩年にはその大部分撤回余儀なくされている。 オーストリアとプロイセンは1772年ポーランド分割行って領土拡張させており、ヨーゼフ2世は更にバイエルン選帝侯領獲得企て1777年バイエルン継承戦争起こすが、プロイセン干渉によって一部領土獲得したに留まった。ヨーゼフ2世尚もバイエルン獲得諦めなかったが、プロイセンザクセンハノーファーに諸小邦加わって帝国国制維持」を掲げる「君侯同盟」(Fürstenbund)を結成しヨーゼフ2世企て挫折させた。ヨーゼフ2世1790年死去し、弟のレオポルト2世帝位継承したヨーゼフ2世治世末期革命考えが広まる事を懸念して警察力強化政治的な抑圧が行われ始めた1786年オーストリア警察下記命令受けている。 一般大衆皇帝とその政府について何をいっているか、この点に関して世論どのように展開しているか、上流階級下級階層不満分子場合によっては扇動が行われていないかどうか密かに調査するように (中略) これらすべてを、絶え本部報告しなければならない

※この「オーストリアとプロイセン」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「オーストリアとプロイセン」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。

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