オーストリアとプロイセン
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「神聖ローマ帝国」の記事における「オーストリアとプロイセン」の解説
「オーストリア大公国」、「ハプスブルク君主国」、および「プロイセン王国」を参照 ヴェストファーレン条約によって帝国は300以上の領邦国家と帝国自由都市の集合体となり、その中には極めて小規模な領邦も存在していた。一方、ハプスブルク家はオーストリアその他の世襲公領とボヘミア王国、西ハンガリー王国との同君連合を統治し、このハプスブルク君主国における絶対主義国家形成へと向かう(オーストリア絶対主義)。 1657年にフェルディナント3世が死去するが、皇位継承者だったローマ王フェルディナント4世は父に先立って既に死去していた。皇帝選挙ではマザラン枢機卿がハプスブルク家を排除してフランス王ルイ14世を将来の皇帝とすべく、中継ぎとしてバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアを推す動きもあったが、結局、フェルディナント3世の次男レオポルト1世が選出された。しかしながら、この為にレオポルト1世は選挙協約で諸侯に対するより一層の譲歩を余儀なくされている。 1663年にレーゲンスブルク帝国議会が開催されたが、この帝国議会は以降、議決も散会もされずに帝国が消滅するまで継続して「永続的帝国議会」(Immerwahrender Reichstag)と呼ばれるようになり、諸侯の使節会議と化してしまった。 レオポルト1世の治世、帝国は度重なるルイ14世の領土的野心とオスマン帝国の脅威に直面している。1667年に始まった一連のネーデルラント継承戦争(帰属戦争、オランダ侵略戦争)でフランスはスペイン、ネーデルラントそして神聖ローマ帝国に戦いを仕掛け、ナイメーヘンの和約でスペインからフランシュ=コンテ、帝国からはフライブルク・イム・ブライスガウその他の領土を獲得し、その後、ルイ14世は東部国境地帯の「再統合」を推し進め、1681年にはシュトラースブルク(ストラスブール)を占領した。 1683年、ルイ14世からの中立の約束を得たオスマン帝国が軍事行動を起こし、20万の兵力をもってウィーンを包囲した(第二次ウィーン包囲)。オーストリア軍は包囲戦を耐え抜き、到着したポーランド王ヤン3世やドイツ諸邦の援軍がオスマン帝国軍を決定的に打ち破った。以後もオスマン帝国との戦争は16年に渡り続くが(大トルコ戦争)、1697年にプリンツ・オイゲン率いる帝国軍がゼンタの戦いで大勝して勝敗は決した。1699年にカルロヴィッツ条約が結ばれてオスマン帝国はヨーロッパ領土の割譲を余儀なくされ、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリーとトランシルヴァニア、スロヴェニア、クロアチアを獲得した。 一方、ルイ14世はオーストリアとオスマン帝国との戦いに乗じて1688年にプファルツ選帝侯領へ侵攻して多大な被害をもたらした(プファルツ継承戦争)。だが、フランスはオーストリア、ドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデンそしてイギリスが加わったアウクスブルク同盟諸国と敵対することになり、戦争は長期化して1697年に終結したが、フランスはプファルツのみならず、以前の戦争で獲得した領土の大半を放棄せざる得なくなった(レイスウェイク条約)。 この時期のスペイン王カルロス2世は生来病弱の上に子がなく、スペイン・ハプスブルク家は断絶しようとしていた。レオポルト1世のオーストリア・ハプスブルク家、そしてルイ14世のブルボン家ともに有力な王位継承権を有しており、スペイン王位継承を巡る対立が高まる中、カルロス2世はルイ14世の孫アンジュー公フィリップを後継者に指名した。1700年にカルロス2世が死去するとルイ14世はアンジュー公フィリップのスペイン王継承に同意するが(スペイン王フェリペ5世)、オーストリア、イギリスを初めとする諸国がこれに反対してスペイン継承戦争が勃発する。この戦争では帝国諸侯のほとんどが皇帝軍に加わったが、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルと弟のケルン大司教ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンがフランスに味方して皇帝軍と戦っている。 ブレンハイムの戦いでオーストリア=イギリス軍はフランス=バイエルン軍に勝利するものの、戦争は膠着状態に陥り、1713年と1714年にそれぞれユトレヒト条約とラシュタット条約が締結され、各国がフェリペ5世の王位を承認する見返りにスペインが多くの領土を割譲することで終わっている。オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャを獲得した。レオポルト1世は戦争中の1705年に死去しており、ルイ14世も戦争終結から程ない1715年に死去した。 この時代、聖俗諸侯領では絶対主義化が進行していた。フランスやオスマン帝国の脅威を受けていた中小領邦はその存立を守護する存在としての帝国国制を必要としていた。特に西南ドイツでは帝国クライスが地域自治機関として機能しており、クライス議会が活発に活動し、クライス軍制はその防衛機能をある程度だが果たしている。 ハプスブルク家のオーストリアがフランスやオスマン帝国との戦争を行いつつ大国としての地位を固めている間に、帝国内ではブランデンブルク=プロイセンが台頭し始めていた。1618年にプロシア公領とブランデンブルク辺境伯領との同君連合が成立したホーエンツォレルン家のブランデンブルク=プロイセンはフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の治世にヴェストファーレン条約によって東ポメラニアを獲得し、戦後はポーランド王国の影響力を排除するとともに等族との対決に打ち勝って絶対主義に基づく統治体制を構築していた。この間に大選帝侯は、スウェーデンの影響力を排除して海上にも進出した(ブランデンブルク領黄金海岸)。そして、1701年、フリードリヒ1世はスペイン継承戦争でオーストリアに味方する見返りに帝国領域外での戴冠の承認を受け「プロイセンの王」(König in Preußen)を名乗る。次代のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)は軍制改革を実施してプロイセン王国を軍事国家となさしめた。 この時期、プロイセン=ブランデンブルク以外にもザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世がポーランド・リトアニア共和国の王位(アウグスト2世)をハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒがイギリス王位(ジョージ1世)をそれぞれ帝国領域外で獲得している。 スペイン継承戦争と並行して東方では大北方戦争(1700年 - 1721年)が行われており、スウェーデンと北方同盟諸国(ロシア、ザクセン=ポーランド=リトアニア、デンマーク=ノルウェー:後にプロイセン、ハノーファー=イギリスが加わる)とが戦い、ザクセン選帝侯領やスウェーデン領ポメラニアなど帝国領域も戦場になった。カール12世率いるスウェーデンは、攻勢に出てバルト海沿岸諸国を圧倒するも、ロシア国内での大敗を機に優位を失った。長期化した戦争は、ロシアがポーランドまで影響力を伸張し、さらに帝国内での影響力を失ったスウェーデンの最終的な敗北に終わった(ストックホルム条約の締結により、ハノーファー選帝侯やプロイセン王国が帝国北部において勢力を拡大した)。勝利したロシアのツアーリ・ピョートル1世は1721年に皇帝(インペラトル)を名乗り、ロシア帝国が成立した。スウェーデンはバルト海世界の覇権を失い、ロシアが代ってヨーロッパの列強の一角として浮上した(ニスタット条約)。ロシア皇帝は東ローマ皇帝の後継者を主張しており、1453年に東ローマ帝国が滅亡して以来、約300年ぶりにキリスト教世界に二人の皇帝が並び立つこととなった。 ヨーゼフ1世の短い在位を経て1711年に即位したカール6世は対外戦争によってハプスブルク家の領土を拡大したが、唯一の男子が夭逝して女子しか子がなく、この為、1724年にカール6世は皇女マリア・テレジアを後継者とすべく国事詔書(Pragmatische Sanktion)を出し、諸国にこれを認めさせるために多くの外交的・領土的な譲歩をしている。 マリア・テレジア(左)とプロイセン王フリードリヒ2世(右) だが、1740年にカール6世が死去するとフランス王ルイ15世、プロイセン王フリードリヒ2世(大王)を初めとする諸国がマリア・テレジアのハプスブルク家世襲領継承に異議を唱えオーストリア継承戦争が勃発した。また、帝国法は女子の皇帝を認めておらず、このためハプスブルク家はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの皇帝選出を目論んでいたが、選出されたのはフランスと結んだバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(ヴィッテルスバッハ家)であった。1742年にカール・アルブレヒトは神聖ローマ皇帝カール7世として即位し、彼が1437年に即位したアルブレヒト2世以降、唯一のハプスブルク家以外の皇帝である。だが、即位の直後にバイエルンの首都ミュンヘンをオーストリアに占領され、カール7世はフランスの支援が十分に得られないまま各地を転戦するうちに僅か3年の在位で1745年に死去した。オーストリアとバイエルンとの和議が成立して次の皇帝にはマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが選出された(神聖ローマ皇帝フランツ1世)。1748年にアーヘンの和約が成立してマリア・テレジアはハプスブルク家世襲領継承を承認させることに成功したが、シュレジエンをプロイセンに割譲せねばならなかった(シュレージエン戦争)。 英明な君主であったマリア・テレジアはオーストリアの内政改革を進める一方、シュレジエンを奪回するべく外交を展開してロシア、ザクセンそして長年の宿敵だったフランスとの同盟を成立させ対プロイセン包囲網を構築した(外交革命)。1756年に勃発した七年戦争でイギリスと同盟したフリードリヒ2世は圧倒的な国力の差にもかかわらず幾つかの戦いで勝利して持ちこたえるが、1761年にはイギリスの援助が打ち切られ苦境に陥った。だが、1762年にフリードリヒ2世の信奉者だったピョートル3世がロシア皇帝に即位するとロシアは戦線を離脱し、フリードリヒ2世は危機を脱した。オーストリア、プロイセンそしてザクセンとの間で1763年に締結されたフベルトゥスブルク条約により、プロイセンはシュレジエンを確保してヨーロッパの列強にのし上がる。これがドイツの覇権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立の始まりとなった(ドイツ二元主義)。 フランツ1世は1765年に死去し、後を継いで皇帝に即位した嫡男ヨーゼフ2世は母マリア・テレジアとハプスブルク君主国の共同統治に入った。マリア・テレジアとヨーゼフ2世は啓蒙的諸政策を実施して、オーストリアにおける「啓蒙専制主義」を確立した。 1780年にマリア・テレジアが死去して単独統治に入ったヨーゼフ2世は宗教寛容令や修道院の廃止、死刑制度の廃止といった急進的な啓蒙諸改革(ヨーゼフ主義)を実施するも、反発を受け治世の晩年にはその大部分の撤回を余儀なくされている。 オーストリアとプロイセンは1772年にポーランド分割を行って領土を拡張させており、ヨーゼフ2世は更にバイエルン選帝侯領獲得を企て、1777年にバイエルン継承戦争を起こすが、プロイセンの干渉によって一部の領土を獲得したに留まった。ヨーゼフ2世は尚もバイエルン獲得を諦めなかったが、プロイセン、ザクセン、ハノーファーに諸小邦が加わって「帝国国制の維持」を掲げる「君侯同盟」(Fürstenbund)を結成し、ヨーゼフ2世の企てを挫折させた。ヨーゼフ2世は1790年に死去し、弟のレオポルト2世が帝位を継承した。 ヨーゼフ2世治世の末期、革命の考えが広まる事を懸念して、警察力の強化と政治的な抑圧が行われ始めた。1786年、オーストリア警察は下記の命令を受けている。 一般大衆が皇帝とその政府について何をいっているか、この点に関して世論はどのように展開しているか、上流階級や下級階層に不満分子や場合によっては扇動が行われていないかどうか、密かに調査するように (中略) これらすべてを、絶えず本部に報告しなければならない。
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