修道院の廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/22 07:29 UTC 版)
フランス革命に端を発した大きな政治的影響はゾースト沃野でも力を発揮した。リュネヴィルの和約(1801年)によって、ドイツ諸侯が治めていたライン川左岸の地域すべてがフランスに割譲されることが決定した。これをライン右岸で賠償する必要があった。このために必要な土地は、レーゲンスブルクでの帝国代表者会議主要決議(1803年)に従って聖界所領を没収して供給することとなった。1804年にヴェルヴァー修道院に統治委員が現れ、財産目録を入手し、文書庫と金庫を封鎖して、押収を宣言した。しかし突然勃発した戦争により、その他の処置は先送りされた。 若い修道院オルガニストで教師のベルンハルト・ハインリヒ・ホンカンプは、修道女や修道院長マリア・テレージア・フォン・ローンとともに修道院の将来に大きな懸念を抱いた。彼は多くの愛と理想主義を備えた学校を創出しようと考えたが、女子修道院長や修道女の積極的な援助や支援が得られなかったため、頓挫した。 ホンカンプの提案で、修道院集会は新しい教会に正式なカトリック教区を設けることとし、当時の総長の賛同を得て1807年9月3日に認可された。これ以後、ヴェルヴァー、マイエリヒ、フレルケ、クロッティングン、レックリングゼン、アイネッケ、アイネッカーホルゼン、エーニングゼン、ベルヴィッケ、ナテルン、ディンカー、フェリングハウゼン、アイルムゼン、ドルフヴェルヴァーのカトリック住民はこの教区に属すこととなった。 1809年11月18日にヴェルヴァー修道院はおよそ570年の歴史の幕を閉じた。ただし、沃野最大の森林地域であるヴェルヴァーの森、古い池と壕施設、銘文とフォン・アルデブルーフ修道院長の紋章が刻まれた石造りの建物、修道院の使用人たちが住んでいた村に建っていた木組み建築、1700年頃に建てられたバロック教会だけが遺された。
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