ヴェルヴァー修道院
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ヴェルヴァーおよびその周辺地域の宗教的、文化的、経済・社会的発展に深く、決定的な転換をもたらしたのが、1240年頃のシトー会女子修道院の創設であった。1242年付けの文書によって、ケルン大司教コンラート・フォン・ホーホシュターデン(ドイツ語版、英語版)がこの修道院を設立し、新しい修道会支部を教会の特別な庇護下に置いたことが証明されている。 修道院の管理と運営は、修道女の中から終身制で選ばれた女子修道院長の手に委ねられた。修道院長は、修道院内の内省的・宗教的生活を監視し、世俗的・経済的用件を処理し、外部に対しては修道院の代表者を務めた。彼女のサポートをする者として、財務担当の「プリオリサ」、飲食やその他のサービスを担当する「ケルナーシェ」、備品管理や規律を担当する「ケムナーシェ」がいた。 初代の女子修道院長には、代官であるヴァルターの姉妹にあたるヘリカが選ばれた。続くアセラとアライディスの時代である1261年から1267年に石造建築の修道院が建設された。文書や式典記録によって現在までの29人の女子修道院長の名前が判っている。その中で建設工事に最も熱心だったのがマリア・エリーザベト・フォン・アルデブルックで、1685年に修道院の建物の一部を新築し、さらに1697年から1700年に新しい修道院教会を建設した。これが現在の聖ベルンハルト教区教会である。美しい修道院玄関(後に聖ゲオルク福祉施設の入り口)にその紋章、銘文、年号(1687年)が掲げられている。修道院のブルワリーはカタリーナ・ゲルトルーディス・フォン・ビショッピンクによって建造された。この建物は、後にカトリックの学校が入居し、さらにその後ユングコルピング=ハイムとなり、現在は郷土館となっている。この建物の紋章と銘文は、ひどく風化している。銘文にはローマ数字で1712年と記されている。豪華な聖体顕示台にも修道院長の名前と1722年の年号が刻まれている。 創設当初からこの修道院は、ニーダーラインのアルテンカンペン修道院長の監督下に置かれていた。修道院の聖俗両面での利益確保に関する最終決定は彼の責務であった。その決定権は、売買、寄付、建設、さらに女子修道院長や司祭の専任にまで及んだ。 最初の2世紀の間に修道院は、譲渡(周辺に住む貴族の子女が修道院に入る際の持参金)、寄付、購入により広大な地所を獲得した。1685年の土地台帳には周辺の合計 51 ヘーフェの土地が修道院の所有とされている。 一部はミュンスター州立文書館、一部はゾースト州立文書館に保管されているいくつかの文書は、シトー会の修道女がヴェルヴァー地域でおよそ6世紀の間活動していたことを示している。
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