ヴェルヴァーの宗教改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/22 07:29 UTC 版)
「ヴェルヴァー」の記事における「ヴェルヴァーの宗教改革」の解説
16世紀の大きな宗教改革運動はこの沃野にも及び、これによりゾースト市はルター派の教えに帰依することを1531年に宣言した。ゾーストは、近隣の自由伯領を買収することで、13世紀から14世紀にはこの沃野の覇権を握っていた。このため、この地方の司祭区でも新しい教義に門戸が開かれようとしていた。 ヴェルヴァーでは比較的長く混乱が続いた。修道院はカトリックに留まった。修道院長ゲルトルート・ヴァン・ホイテとその後任のマルガレータ・フォン・フュルステンベルクは修道院集会とともに、任せられた教会組織を新しい教義の影響から護ろうと努めた。このため、ゾースト参事会と女子修道院長との間で、疲弊するだけの応酬と紛争が長く続いた。追放を含む排斥を何度も互いに繰り返した後、ヴェルヴァーでは司祭にカトリック、その副司祭に福音主義が就くという関係が一旦成立した。当然、この解決法では不和やさらなる紛争を押さえ込むことはできなかった。三十年戦争では、ある時は修道院側の皇帝軍が、ある時はゾースト議会の兵士がこの地域を掌握した。 1649年12月19日、ゾーストの参事会員の前で、ブランデンブルク選帝侯領の代表者ドロステ=ノイホフ・ツー・アルテナとウナの騎士エーバーハルト・ツァーンによって、ヴェルヴァーの教会、司祭館、聖具室はその財宝とともに最終的に福音主義組織のものとなり、ルター派の牧師アルベルト・シェヴォイスがヴェルヴァーの教会に入った。教会は、1565年から1623年までそうであったように、共同の教会として利用されることとなった。内陣ではカトリックである修道院の礼拝が、それ以外では福音主義の教区組織の礼拝が行われた。修道院は、1697年から1700年までに古い教会のすぐ隣に新しくバロック様式の教会(現在のカトリック教区教会)を建設した。これ以降、古い教会は完全に福音主義教会が利用することとなった。
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