宗教改革運動
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1969年(昭和44年)頃から、出口榮二(直日の長女・直美(教主継承者)の夫)と出口京太郎(直日の第4子で長男)の確執が激しくなってくる。この年は東大安田講堂事件が起きた年で、イデオロギーをめぐる対立が大本内にも影響を与えたこともあり、次第に教団内部の対立が表面化してくる。 1976年(昭和51年)に出口京太郎が大本総長に就任して、教主に次ぐ教団ナンバー2となる。その後、1980年(昭和55年)5月5日に出口京太郎が「王仁三郎」の名を襲名する計画があることを知ると、和明らはそれを阻止するために立ち上がる。同年3月10日に130人の信徒と共に教団改革グループ「いづとみづの会」を設立。株式会社として登記して、教団執行部から潰されないようにした。 1981年(昭和56年)9月、出口榮二があらゆる役職を解任されて教団から追放される。翌1982年2月、和明は、出口昭弘(禮子の兄)、坂田三郎(みな「いづとみづの会」の主要人物)と共に宣伝使を解任される。4月、宗教法人大本を相手取り地位確認等を求めて提訴。5月には四代教主の継承者を、長女の直美から三女の聖子(きよこ)に変更することが、直日によって発表される。 1981年から83年にかけて大本教団執行部は、「いづとみづの会」に賛同したり、出口直美・榮二を支持したりする千数百人の信徒を、「反教団活動」を行ったとして事実上除名する。 改革運動を起こし、教団から除名されて行き場を失った大本信徒たちは、出口直美・榮二を中心とする「出口直美様を守る会」と、和明らを中心とする「いづとみづの会」の二つのグループに分かれた。 「いづとみづの会」を母体として1986年(昭和61年)11月7日に「愛善苑」発足。翌年12月16日に宗教法人として登記する。
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