宗教改革時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 18:17 UTC 版)
16世紀中頃のエディンバラはスコットランドの宗教改革(英語版)においてプロテスタント主義の確立をもたらした出来事において中心的な役割を果たした(リースの包囲戦(英語版)を参照)。1561年にフランスから帰国したカトリック教徒のスコットランド女王メアリーは、短い治世の間、帰国前から懸念されていた深い不和に悩まされた。彼女の個人的な信仰とイングランドの王位の要求が最終的にカトリックへの復帰を導くことになることを恐れたプロテスタントの貴族と聖職者は、彼女の統治に執念深く非友好的であり続けた。メアリーは当初一般大衆には歓迎されたものの、秘書官のダヴィッド・リッツィオ(英語版)や王配ヘンリー・ステュアートの殺害を含むホリールード宮殿で展開した悲劇の連鎖は1567年のメアリーの強制的な退位で危機的状態に達した。姦婦そして殺人者として彼女の処刑を求めたセント・ジャイルズ大聖堂での説教を通して、エディンバラのプロセスタント聖職者の一人ジョン・ノックスはメアリーに対する世論に火を付けた。カーベリー(英語版)で捉えられた後、メアリーは一時的に現在のエディンバラ市議会議事堂(英語版)の場所にあった市長(英語版)の屋敷に拘留され、その後リーブン湖城(英語版)に幽閉された。メアリーの幽閉からの脱出とラングサイド(英語版)での敗北、イングランドへの逃避の後に起こったスコットランド内戦は1573年のエディンバラ城の「長い包囲戦」において残ったメアリーの忠実な支持者の最終的な降伏によって幕と閉じた。 17世紀に入っても続いたスコットランドのプロテスタント内部における長老派と監督派の宗派対立は、カヴェナンターの反乱と清教徒革命によって頂点を迎えた。この間、エディンバラはスコットランド議会(英語版)の議席としてそのカーク(英語版)(教会)が主導権を握る部会委員会(英語版)と共に重要な位置を占めた。1689年の最終的な長老派の勝利(英語版)によってスコットランド国教会の安定した形が決定され、ひいては国と国民のほとんどにわたってる長老派の正統性が押し付けられることとなった。 長老派はスコットランド聖公会および異端とされる人々の追放に精力を注ぎ、この時代に冒涜行為は死罪とされた。1696年外科医の息子である18歳のトマス・アイケンヘッドは、新約聖書が「偽の救世主の歴史書」であると発言して枢密院の命令により絞首刑となった。ちなみにトマスは冒涜罪によって処刑されたイギリス最後の人物である。
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