宗派対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)
この時期、ルター派はザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯をはじめとする北ドイツ一帯に広まっており、帝国領域外ではドイツ騎士団も改宗してプロイセン公国が成立し、デンマークとスウェーデンもルター派を導入している。一方、カルヴァン派は西部に浸透し、プファルツ選帝侯が改宗した。諸侯の数では依然としてカトリックが多かったが、人口ではプロテスタントが圧倒していた。 フェルディナント1世はプロテスタント諸侯に対して融和的な施策を取り、1560年代前半まで大きな軍事的紛争を起こすことなく帝国を統治した。1564年にフェルディナント1世が死去すると、彼の息子マクシミリアン2世が皇帝になり、父と同様にプロテスタントの存在と時々の妥協の必要性を受け入れていた。スペインに対するオランダ人プロテスタントの反乱(八十年戦争)では帝国は中立を守っている。だが、この宗教融和は「単なる休戦」に過ぎなかった。 1570年代からイエズス会を尖兵とする反宗教改革がドイツに浸透し始めており、各地でカトリック勢力によるプロテスタント弾圧が行われた。これに対して、プロテスタント勢力はルター派と西部ドイツに勢力を広げるカルヴァン派とが対立しており、カトリックに対して統一行動が取れない状態になっていた。1577年に選帝侯であるケルン大司教ゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク (en) がカルヴァン派の女性と結婚するために改宗を表明し、これに反対して大司教罷免を強行するカトリック諸侯とのケルン戦争 (en) が勃発するが、ルター派の多いプロテスタント諸侯はこれを傍観している。 プロテスタントに寛容なマクシミリアン2世が1576年に死去すると、頑迷なカトリックである彼の息子ルドルフ2世は父の政策を廃棄して帝国宮内法院と帝国最高法院の判事の過半数にカトリックを任命する。帝国諸制度は次第に麻痺化し、1588年には既に帝国最高法院が機能しなくなっていた。16世紀初めにはプロテスタント諸邦はもはやカトリックによって独占的に運営される帝国宮内法院を認めなくなり、事態はさらに悪化した。同時期、帝国クライスの選帝侯や諸侯は宗派によって集団を形成するようになっていた。1608年のレーゲンスブルク帝国議会は閉会宣言なく終了し 、カルヴァン派のプファルツ選帝侯とその他の出席者たちは皇帝が彼らの信仰を認めなかったために退席している。 同年、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主に6人の諸侯がプロテスタント同盟(Protestantische Union)を結成した。その後、その他の都市や諸侯もこの同盟に加入する。当初、ザクセン選帝侯と北部諸侯は加盟を拒否したが、後にザクセン選帝侯も同意している。これに対して、翌1609年にカトリック諸侯がバイエルン公マクシミリアンを盟主とするカトリック連盟(Katholische Liga)を結成した。連盟は帝国におけるカトリックの優位を守ることを目的としていた。帝国諸機関は麻痺状態となり、戦争は不可避となった。 一方、皇帝ルドルフ2世はプラハに引きこもって神秘諸術に耽る状態で、事態に対処する能力を持たなかった。ルドルフ2世は不満を持った弟・マティアスと争って1608年にハンガリー王位を奪われ、ボヘミア・プロテスタント等族の支持を得るためにプロテスタントに信仰の自由を与える「勅許状」を出すが、マティアスに軟禁され1612年に死去した。 帝位を継いだマティアスは宗教対立の仲裁を試みるが失敗に終わり、ボヘミア王位を従弟のシュタイアーマルク公フェルディナントに譲らざるをえなくなる。
※この「宗派対立」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「宗派対立」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。
- 宗派対立のページへのリンク