文化的ナショナリズムの高揚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 04:16 UTC 版)
「近代レバノンの歴史」の記事における「文化的ナショナリズムの高揚」の解説
オスマン帝国の直接統治下におかれていたベイルートでは、当時レバノンで盛んに活動していたプロテスタントの宣教団(ベイルート・アメリカン大学の前身を開設したことでも知られる)などとの接触に影響を受けて、文化的なアラブ・ナショナリズムの高揚が見られるようになり、アラビア語による辞書や百科事典の編纂で知られるブトルス・アル=ブスターニーのような、キリスト教徒のアラブ知識人による盛んな文化活動が行われるようになった。 オスマン帝国の直接統治下の多民族・多宗教の混淆状態のなかで、宗派対立と諸外国の介入に直面していたキリスト教徒のアラブ知識人にとって、宗派対立を超越・収束するための解決策が求められていた。この結果、ブスターニーは言語に民族の紐帯を見いだし、自らが「アラビア語を話すアラブ」という点においてムスリムのアラブと何ら変わるところがない以上、「アラブ」であると規定するのは宗教ではなく言語であるという考えを持つに至った。 このような文化的ナショナリズムも、始まりは外国の宣教団に影響を受けたキリスト教徒のみによる運動であった。しかし、ブスターニーらは1857年に全宗派を対象としたシリア学術協会(科学協会)を設立し、徐々にではあるがムスリム知識人の間にも理解者を増やしていった。ただし、シリア学術協会という名前が示すように、レバノンが主な活動地域であったとはいえ、彼らの問題意識が歴史的シリア全体に向かっていたことには留意する必要がある。
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