レゲエの誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:17 UTC 版)
ロックステディの流行も短命に終わり、1968年にはレゲエが取って代わった。前述の通り「レゲエ」という言葉が最初に用いられた曲はメイタルズ「ドゥ・ザ・レゲエ」であるが、最初にレゲエの音楽的特徴が取り入れられた楽曲ははっきりしていない。メント風のリズミカルなギターにブールーやクミナ風のパーカッションを取り入れたリー・ペリー「ピープル・ファニー・ボーイ (People Funny Boy)」や、電子オルガンとディレイのかかったギターが特徴のラリー・マーシャル(英語版)「ナニー・ゴート (Nanny Goat)」、レスター・スターリン(英語版)「バンガラン (Bangarang)」、パイオニアーズ(英語版)「ロング・ショット (Long Shot)」、エリック・モンティ・モリス(英語版)「セイ・ホワット・ユア・セイイング (Say What You're Saying)」などの1967年から1968年に発表された作品群はロックステディからレゲエへの変化が顕著に現れている。 ゆったりしたワンドロップ・リズムこそロックステディ期と同一だったものの、シンコペーションのある裏打ちを刻むギター・オルガンと、ベースラインの対比よりによってそれ以前のジャマイカ音楽とは異なるレゲエ特有のアンサンブルが完成した。この変化について1962年から1968年までジャマイカで活動したトリニダード・トバゴ出身のギタリストリン・テイトは「ロックステディはコモンタイム、レゲエはカットタイム(英語版)。フレージングが全く違う」と証言している。 この変化の要因としてはリン・テイト、リコ・ロドリゲス、ローレル・エイトキン(英語版)、ジャッキー・ミットゥらスカ、ロックステディ期に活動したミュージシャン達が国外に移住したことや、各種エフェクターや録音機器の進歩と、それに伴うリー・ペリー、キング・タビー、バニー・リーら新興プロデューサー達の台頭があった。遂に自前のスタジオを持つことがなかったバニー・リーをはじめ、彼らの多くは楽曲制作において一層経済性を重視したため、コストのかかるホーンセクションの出番はスカ時代より減っていった。 同時に歌詞の内容もアビシニアンズ「サタ・マサガナ(英語版)」やエチオピアンズ「エブリシング・クラッシュ (Everything Crash)」をはじめとする黒人としての誇りや社会問題について歌うものが多くなっていったが、その背景には1966年のハイレ・セラシエ1世ジャマイカ訪問や西インド諸島大学に在籍したガイアナ人講師のウォルター・ロドニー(英語版)らの活動によってよりさらに勢力を増しつつあったラスタファリ運動や、同年独立を記念しジャマイカ政府によって創始された「フェスティバル・ソング・コンテスト(英語版)」による文化的ナショナリズムの高揚、さらにジャマイカ労働党による経済政策の失策による景気・治安の悪化や、アメリカ合衆国で高まりを見せつつあった公民権運動やネイション・オブ・イスラムの流行などの様々な要因があった。
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