二十六聖人殉教との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:19 UTC 版)
「サン=フェリペ号事件」の記事における「二十六聖人殉教との関係」の解説
サン=フェリペ号事件に関してしばしば長盛との問答でのスペイン人船員(デ・オランディアとも)の「積荷を没収された腹いせ」による発言が秀吉を激怒させたと説明されるが、これは1598年に長崎でイエズス会員たちが行った「サン=フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人殉教」の原因調査のための査問会での証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されていない。フランシスコ会とスペインとの関係は必ずしも良好なものでなく、実際のフランシスコ会の布教はコルテスの侵略完成後に行われていたため、出任せや腹いせで発言したとの説明には一定の蓋然性が認められる。 1592年5月31日の原田孫七郎に託された国書で、秀吉はフィリピン総督に対して一国を代表して降伏勧告、恫喝を行っており、1593年にも服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる最後通牒を告知し、1592年4月12日には朝鮮出兵を開始していた。日本はスペイン領フィリピンに好戦的な侵略国としての印象を与えており、フィリピン在住のスペイン人の対日感情は悪化していた。一船員であるデ・オランディアの個人としての発言はその反映とも取れる。 また、秀吉がそれまで言い伝えていた処遇から翻った処断を下したこと、この事件の直後に殉教事件が起きていること、処刑された外国人はフランシスコ会だけであったことから、秀吉は前々より都周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていたスペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や宗派対立を嫌悪していたことが考えられる。 さらに、秀吉自身が秀次事件の後の政権内綱紀粛正や明の冊封使の対応(後の慶長の役に繋がる)に忙殺され、スペイン支配下の呂宋国(フィリピン)へは明確なビジョンがなかったことなど、複数の原因も考えられる。 しかしこの事件は、それまでひとくくりにされていた南蛮がスペイン系キリスト宗派やスペイン人とポルトガル人とで異なるという意識を芽生えさせ、後の徳川期の鎖国のプロセスにおいて先にスペイン船が渡航禁止(1624年、ポルトガル船渡航禁止は1639年)とされる事態も生じている。 英国国教会は1959年に日本二十六聖人が殉教した2月5日を記念日としてカレンダーに追加した。アメリカ福音ルター派教会では2月5日を記念日としている。
※この「二十六聖人殉教との関係」の解説は、「サン=フェリペ号事件」の解説の一部です。
「二十六聖人殉教との関係」を含む「サン=フェリペ号事件」の記事については、「サン=フェリペ号事件」の概要を参照ください。
- 二十六聖人殉教との関係のページへのリンク