二十四世宗家に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 03:54 UTC 版)
伯父の二十三世宗家・観世清廉に子がなく、また清廉が1907年(明治40年)頃から病気がちとなることもあって早くからその養子に望まれていた。「清久」の名も清廉が西本願寺法主大谷光尊と相談して名付けたものである。 清廉の病状悪化に伴い、養子入りの話が具体化する。しかし片山家の嗣子でもある清久の養子入りには祖母・春子が強硬に反対しており、無断で内諾を出した九郎三郎がその激怒を買ったと報道されたこともあった。一方の宗家側の使いも、これでは面目が立たないので腹を切る、と訴える騒動となったが、結局弟・片山博通の誕生もあり、1908年(明治41年)に14歳で清廉の養子となる。 1911年(明治44年)、養父・清廉の死により二十四世宗家を嗣ぐ。 当初は分家当主・観世銕之丞(紅雪)が後見人となるも老年のため、梅若万三郎が代わって指導することとなったが、結局五番ほどのおさらえを見るに留まった。そのため実父・観世元義(1913年(大正2年)七世片山九郎右衛門襲名、1916年(大正5年)光子と離縁して観世家に戻る)が事実上の後見人を務める。元義は京都に拠点を置きつつ、たびたび上京しては我が子の相談役となったが、あくまで家元と弟子家の人間、という態度を崩さなかった。 1913年(大正2年)、「元滋」と改名。翌1914年(大正3年)12月には、大正天皇即位式後の祝宴での演能(大典能)で、宮城にて「翁」を勤めている。 元義は1920年(大正9年)に没し、以後独学で芸の精進に努めることとなる。すらりと背高い整った容貌、「天人の声」と評された美しい謡に恵まれ、気品ある芸を完成させた。
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