スペイン領東インド
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- スペイン領東インド
- Indias Orientales Españolas (スペイン語)
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↓ 1565年 - 1899年 →
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→
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(国旗) (国章) -
国の標語: Plus Ultra(ラテン語)
更なる前進 -
国歌: Marcha Real(スペイン語)
国王行進曲 -
スペイン領東インドの位置 -
公用語 スペイン語 言語 フィリピン語群、ミクロネシア諸語 国教 カトリック 宗教 イスラム教、フィリピン神話、ミクロネシア神話 首都 セブ(1565年 - 1571年)
マニラ(1571年 - 1898年)
イロイロ(1898年)- スペイン君主
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1565年 - 1598年 フェリペ2世 1598年 - 1621年 フェリペ3世 1621年 - 1665年 フェリペ4世 1700年 - 1724年 フェリペ5世 1746年 - 1759年 フェルナンド6世 1759年 - 1788年 カルロス3世 1808年 - 1813年 ホセ1世 1833年 - 1868年 イサベル2世 1870年 - 1873年 アマデオ1世 1886年 - 1898年 アルフォンソ13世 - 総督
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1565年 - 1572年 ミゲル・ロペス・デ・レガスピ 1898年 - 1898年 ディエゴ・デ・ロス・リオス - 面積
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1877年 345,155km² - 人口
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1877年[1] 5,567,685人 - 変遷
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植民地化 1565年4月27日 フィリピン独立宣言 1898年6月12日 フィリピンをアメリカに割譲 1898年12月10日 ミクロネシアをドイツに割譲 1899年2月12日
通貨 フィリピン・ペソ 現在 フィリピン
台湾
インドネシア
パラオ
ミクロネシア
マーシャル諸島
北マリアナ諸島
グアム
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先代 次代 ヌエバ・エスパーニャ副王領
トンド王国
セブ・ラージャ国
マギンダナオ王国
スールー王国
ブルネイ帝国
フィリピン第一共和国
グアム
ドイツ領ニューギニア
オランダ領フォルモサ
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スペイン領東インド(スペインりょうひがしインド、スペイン語: Indias Orientales Españolas)は、1565年4月から1898年12月までスペインが領有したアジア太平洋の植民地である。政庁所在地はマニラで、領域はフィリピン・マリアナ諸島及びカロリン諸島(一時的に台湾・サバ及びモルッカ諸島の一部も領有した)。
概説
1565年4月から1821年9月までメキシコシティに位置するヌエバ・エスパーニャ副王の権限下にあったが、メキシコが独立した後はスペイン本国から直接指令された。1898年8月の米西戦争終結後にフィリピン・グアムなどはアメリカ合衆国によって占領され、残りの島々は1899年2月のドイツとの条約によって売却された(ドイツ領ニューギニア)。スペイン国王は伝統的に自らを「東西インドの王」(Rey de las Indias orientales y occidentales)と称した。
脚注
- ^ Population of the Philippines Census Years 1799 to 2007 Archived 2012年7月4日, at the Wayback Machine.. National Statistical Coordination Board.
スペイン領フィリピン
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「文禄・慶長の役」の記事における「スペイン領フィリピン」の解説
フィリピンは当時スペイン植民地 で、秀吉が交渉した南方諸国の中では唯一交戦の可能性があった。織豊時代の日本とは人の往来が活発で、そうしたルソン島を往復していた一介の貿易商原田孫七郎(ガスパル・ハラダ)が、フィリピンの防備が手薄なのを知って秀吉にこの国を征服は容易であると上奏したことから、秀吉は孫七郎の策を受け入れて、天正19年(1591年)9月15日、彼に国書を持たせて降服を勧める使者としてマニラに派遣することにした。国書は西領フィリピンに朝貢と服属を要求するもので、既に朝鮮と琉球は日本に入貢していて、大明国の征伐するところだと述べていた。 孫七郎は渡海の前にヴァリニャーノに総督との面会の口添えを依頼しており、日本の侵略意図を察したヴァリニャーノは、マニラにいる同じイエズス会宣教師のアントニオ・セデーニョにこのことを伝えようとした。1592年春に日本船がマニラに来て日本軍襲来の警告をしたのはこのことであろう。フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャス は驚き、海岸の防備を固めて警戒していたところに、5月31日、孫七郎が到着して国書を渡した。スペイン側では漢文を理解できるものがおらず、秀吉の国書は日本語からポルトガル語に訳された後でスペイン語に翻訳された。総督は秀吉の物言いに憤慨したようだが、この頃、スペインはオランダやイギリスと世界各所で戦争中で余力がなかったため、セデーニョと相談して返書をしたためた。内容は、無名の商人が国書を持ってきたことを訝しみ、敢えて使者の真偽に疑問を呈して確認を要請することで秀吉の要求への回答を先送りし、時間を稼ごうとするものだった。またスペイン帝国の大国としての威厳を誇示する一方で日本も大国であることを認めて、大国同士の修好通商を希望する旨も伝えていた。使者としてドミニコ会宣教師フアン・コボ が孫七郎に同行し、貢物を持たせて派遣された。文禄元年(1592年末)、孫七郎はコボと共に薩摩から平戸を経て名護屋で秀吉に謁見した。僅かながら入貢があった事実とフィリピンの対応に秀吉は満足し、孫七郎に五百石扶持を与えて賞した。孫七郎は第二の国書を送るように進言したが、今度の使者は孫七郎の主人にあたる原田喜右衛門が務めることになった。毎年入貢を繰り返すならば出兵は見合わすという内容の書簡は二通あり、コボも受け取って別に帰路についたが、彼は台湾沖で遭難して土民に殺害された。 文禄2年(1593年)4月22日、喜右衛門はマニラに到着して第二の国書を総督に渡したが、スペイン側は事前に船に同乗していた明人を詰問して、日本国王が九鬼義隆にフィリピン諸島の占領を任せたが、台湾の占領も別の人物に任せたから、当地の遠征はその次である等々の出所のよくわからぬ怪情報を得て、それを信じていた。それで(イエズス会ではなく)フランシスコ会宣教師の派遣を要請し、秀吉の要求は来貢であると説明する喜右衛門に対して、総督は突っぱね、貢物として送るのは「大砲の弾丸あるのみ」と高圧的に交戦の決意を述べるに至った。ところが、マラッカ遠征中で今日本と開戦するのは好ましくないと説得され、わずか二週間後に喜右衛門の望み通り、フランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタ、ゴンザロ・ガルシア 等3名を使者とし、メキシコ産の駿馬、玻璃の鏡、鍍金した壺などを贈物として通商同盟条約を申し出ることになった。名護屋で秀吉に謁見したこのフィリピン使節は他の宣教師とは異なる質素な装いが目についたが、ゴンザロが日本語に堪能であったことが幸いして、「日輪の子」を称し威圧的に振る舞う秀吉にも堂々と渡り合って感心させた。秀吉はフィリピン総督が服従しなければ征伐すると脅してスペイン国王の入朝まで要求したが、ゴンザロは冷静にフィリピン人はキリスト教徒としては神以外には服従できずスペイン人としてはスペイン国王以外には王とは認められないと反論。またこの使節は通商同盟条約を申し出るために来たのであるから、新たな要求は本国に伺いを立てないと返答できないと言い、それまでは自分たちは人質として日本に留まると言って了承された。しかし人質とは名ばかりの布教を目的とした滞在であり、フィリピン使節はバテレン追放令後の神父を失っていた京都で大歓迎された。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた。文禄3年(1594年)7月20日に帰朝した呂宋助左衛門が堺の代官石田正澄を通じて、秀吉に傘、蝋燭、麝香鹿、ルソン壺50個を献上して大変喜ばれたという有名な逸話もこの頃である。 フィリピンでは総督が相次いで死にテリヨ・デ・グズマン に代わったが、ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)に派した船が日本近海で難破し、サン=フェリペ号事件が起きた。秀吉はこの事件をきっかけにスペイン王とポルトガル王を兼ねるフェリペ2世が強大なるを知って脅威に感じ、慶長元年(1597年)にキリシタン弾圧を強めて通商同盟条約のために滞在中の使者全員を処刑した。交渉決裂により遠征の噂は絶えなかったが、しばらくして秀吉は病に倒れて実現することはなかった。 詳細は「日本二十六聖人」および「サン=フェリペ号事件」を参照 1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン語版)はフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球と台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている。 「バテレン追放令#追放令後のフィリピン侵略計画」も参照
※この「スペイン領フィリピン」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「スペイン領フィリピン」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。
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