スペイン領フィリピンとは? わかりやすく解説

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スペイン領東インド

(スペイン領フィリピン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 01:33 UTC 版)

スペイン領東インド
Indias Orientales Españolas (スペイン語)
1565年 - 1899年


国旗 (国章)
国の標語: Plus Ultra(ラテン語)
更なる前進
国歌: Marcha Real(スペイン語)
国王行進曲

  スペイン領東インドの位置
公用語 スペイン語
言語 フィリピン語群ミクロネシア諸語
国教 カトリック
宗教 イスラム教フィリピン神話英語版ミクロネシア神話英語版
首都 セブ(1565年 - 1571年)
マニラ(1571年 - 1898年)
イロイロ(1898年)
スペイン君主
1565年 - 1598年 フェリペ2世
1598年 - 1621年 フェリペ3世
1621年 - 1665年 フェリペ4世
1700年 - 1724年 フェリペ5世
1746年 - 1759年 フェルナンド6世
1759年 - 1788年 カルロス3世
1808年 - 1813年 ホセ1世
1833年 - 1868年 イサベル2世
1870年 - 1873年 アマデオ1世
1886年 - 1898年 アルフォンソ13世
総督
1565年 - 1572年 ミゲル・ロペス・デ・レガスピ
1898年 - 1898年 ディエゴ・デ・ロス・リオス
面積
1877年 345,155km²
人口
1877年[1] 5,567,685人
変遷
植民地化 1565年4月27日
フィリピン独立宣言 1898年6月12日
フィリピンをアメリカに割譲 1898年12月10日
ミクロネシアをドイツに割譲 1899年2月12日
通貨 フィリピン・ペソ
現在 フィリピン
台湾
インドネシア
パラオ
ミクロネシア
マーシャル諸島
北マリアナ諸島
グアム
先代 次代
ヌエバ・エスパーニャ副王領
トンド王国
セブ・ラージャ国
マギンダナオ王国
スールー王国
ブルネイ帝国
フィリピン第一共和国
グアム
ドイツ領ニューギニア
オランダ領フォルモサ
フィリピンの歴史

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フィリピン ポータル

スペイン領東インド(スペインりょうひがしインド、スペイン語: Indias Orientales Españolas)は、1565年4月から1898年12月までスペインが領有したアジア太平洋植民地である。政庁所在地はマニラで、領域はフィリピンマリアナ諸島及びカロリン諸島(一時的に台湾サバ及びモルッカ諸島の一部も領有した)。

概説

1565年4月から1821年9月までメキシコシティに位置するヌエバ・エスパーニャ副王の権限下にあったが、メキシコが独立した後はスペイン本国から直接指令された。1898年8月の米西戦争終結後にフィリピン・グアムなどはアメリカ合衆国によって占領され、残りの島々は1899年2月のドイツとの条約によって売却された(ドイツ領ニューギニア)。スペイン国王は伝統的に自らを「東西インドの王」(Rey de las Indias orientales y occidentales)と称した。

脚注

  1. ^ Population of the Philippines Census Years 1799 to 2007 Archived 2012年7月4日, at the Wayback Machine.. National Statistical Coordination Board.

スペイン領フィリピン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「スペイン領フィリピン」の解説

フィリピン当時スペイン植民地 で、秀吉交渉した南方諸国の中では唯一交戦可能性があった。織豊時代日本とは人の往来が活発で、そうしたルソン島往復していた一介貿易商原田孫七郎(ガスパル・ハラダ)が、フィリピン防備手薄なのを知って秀吉にこの国を征服は容易であると上奏したことから、秀吉は孫七郎の策を受け入れて天正19年1591年9月15日彼に国書持たせて降服勧める使者としてマニラ派遣することにした。国書は西領フィリピン朝貢服属要求するもので、既に朝鮮琉球日本入貢していて、大明国征伐するところだと述べていた。 孫七郎渡海前にヴァリニャーノ総督との面会口添え依頼しており、日本侵略意図察したヴァリニャーノは、マニラにいる同じイエズス会宣教師のアントニオ・セデーニョにこのことを伝えようとした。1592年春に日本船がマニラ来て日本軍襲来警告をしたのはこのことであろうフィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャス は驚き海岸防備固めて警戒していたところに5月31日、孫七郎到着して国書渡したスペイン側では漢文理解できるものがおらず、秀吉国書日本語からポルトガル語訳され後でスペイン語翻訳された。総督秀吉物言い憤慨したようだが、この頃スペインオランダイギリス世界各所戦争中余力がなかったため、セデーニョ相談して返書したためた内容は、無名の商人国書持ってきたことを訝しみ、敢えて使者真偽疑問呈して確認要請することで秀吉要求への回答先送りし時間稼ごうとするものだった。またスペイン帝国大国としての威厳誇示する一方で日本大国であることを認めて大国同士修好通商希望する旨も伝えていた。使者としてドミニコ会宣教師フアン・コボ が孫七郎同行し貢物持たせて派遣された。文禄元年1592年末)、孫七郎コボと共に薩摩から平戸経て名護屋秀吉謁見した。僅かながら入貢があった事実フィリピンの対応に秀吉満足し、孫七郎五百石扶持与えて賞した。孫七郎第二国書を送るように進言したが、今度使者は孫七郎主人にあたる原田喜右衛門務めることになった毎年入貢繰り返すならば出兵見合わすという内容書簡二通あり、コボ受け取って別に帰路についたが、彼は台湾沖で遭難して土民殺害された。 文禄2年1593年4月22日喜右衛門マニラ到着して第二国書総督渡したが、スペイン側事前に船に同乗していた明人詰問して日本国王九鬼義隆にフィリピン諸島占領任せたが、台湾占領別の人物任せたから、当地遠征はその次である等々出所のよくわからぬ怪情報得て、それを信じていた。それで(イエズス会ではなくフランシスコ会宣教師派遣要請し秀吉要求来貢であると説明する喜右衛門に対して総督突っぱね、貢物として送るのは「大砲弾丸あるのみ」と高圧的に交戦決意述べるに至った。ところが、マラッカ遠征中で今日本と開戦するのは好ましくない説得され、わずか二週間後に喜右衛門望み通りフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタ、ゴンザロ・ガルシア 等3名を使者とし、メキシコ産の駿馬玻璃の鏡鍍金した壺などを贈物として通商同盟条約申し出ることになった名護屋秀吉謁見したこのフィリピン使節は他の宣教師とは異な質素な装いが目についたが、ゴンザロが日本語堪能であったことが幸いして、「日輪の子」を称し威圧的振る舞う秀吉にも堂々と渡り合って感心させた。秀吉フィリピン総督服従しなければ征伐する脅してスペイン国王入朝まで要求したが、ゴンザロは冷静にフィリピン人キリスト教徒としては神以外には服従できずスペイン人としてはスペイン国王以外には王とは認められない反論。またこの使節通商同盟条約申し出るために来たのであるから、新たな要求本国伺いを立てないと返答できないと言いそれまで自分たちは人質として日本留まると言って了承された。しかし人質とは名ばかり布教目的とした滞在であり、フィリピン使節バテレン追放令後の神父失っていた京都大歓迎された。豊臣秀次配慮前田玄以命じて南蛮寺跡地修道院建設されることになった翌年にはマニラから新たに3名の宣教師来て、京坂地方での布教活動活発化させ、信徒1万増やした前田秀以(玄以の子)や織田秀信寺沢広高大名クラスこの頃洗礼受けた文禄3年1594年7月20日帰朝した呂宋助左衛門が堺の代官石田正澄通じて秀吉に傘、蝋燭麝香鹿ルソン壺50個を献上して大変喜ばれたという有名な逸話この頃である。 フィリピンでは総督相次いで死にテリヨ・デ・グズマン に代わったが、ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)に派した船が日本近海難破しサン=フェリペ号事件起きた秀吉はこの事件きっかけスペイン王ポルトガル王兼ねフェリペ2世強大なるを知って脅威感じ慶長元年1597年)にキリシタン弾圧強めて通商同盟条約のために滞在中の使者全員処刑した交渉決裂により遠征の噂は絶えなかったが、しばらくして秀吉は病に倒れて実現することはなかった。 詳細は「日本二十六聖人」および「サン=フェリペ号事件」を参照 1597年2月処刑され26聖人一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン語版)はフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉フィリピン侵略計画について日本聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年朝鮮人忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出止めなければ、そこからマニラ攻め入るつもりである」と述べている。 「バテレン追放令#追放令後のフィリピン侵略計画」も参照

※この「スペイン領フィリピン」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「スペイン領フィリピン」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

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