バテレン‐ついほうれい〔‐ツイハウレイ〕【▽伴▽天連追放令】
バテレン追放令
バテレン追放令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)
詳細は「バテレン追放令」および「ポルトガルの奴隷貿易」を参照 キリスト教徒に対しては、当初は好意的であった。しかし宣教師による信仰の強制、キリスト教徒による寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していたことなどを理由に、天正15年(1587年)に伴天連追放令(バテレン追放令)を出した。ただしこの時の布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能であった。[要検証 – ノート] 日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒を元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している。1563年十一月七日頃には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリスト教徒の農民たちの家が焼かれたという。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは寺社仏閣の破壊を禁じていた。 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり、グレゴリオ・デ・セスペデスが宣教師として初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年である。 ポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷の記録が残されているが、具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。 豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。 牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。 ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。 司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた。仏教説話集『沙石集』には生き肝を薬とする説話があり仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。 ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている。
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