宗教改革開始期
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「ラインラント福音主義教会」の記事における「宗教改革開始期」の解説
宗教改革以前において、ラインラント地方ではベギン会のような半聖半俗の信徒組織が存在しており、ローマ・カトリック教会の恩恵論とローマ教皇の権威が対峙していた状況であった。ヨハン・フォン・ゴッホ(1400–1475年)とヨハン・ヴェッセル(1419–1489)をニーダーライン地方の宗教改革の先駆者として見なすことも可能である。ドイツとその周辺に起きていた〈新しい信仰Devotio moderna〉と呼ばれる敬虔主義的運動とスコラ学的普遍論争とルネサンス的人文主義がこの地での宗教改革の下地になっていた。 95ヶ条の論題提示以前に、マルティン・ルター (1483–1546)は聖アウグスチノ修道会総会使者として1512年4月/5月にケルンに来ていた。1520年、ローマ教皇外交使節枢機卿ジローラモ・アレアンドロ(1480–1542)がルターの書をケルン大聖堂前で焼却している。しかしながら、マルティン・ルターはドイツ西部において支持者を見出していた。1520年以降、ライン地方出身者のヴィッテンベルク大学入学が許可されていた。1520年代初めにユーリッヒ出身のヨハン・カンパヌス、殉教者アドルフ・クラーレンバッハ(1497–1529)、ニーダーライン地方出身のルター派神学者ハインリヒ・ヒンメル(1486–1529)、再洗礼派神学者ゲルハルト・ヴェスターブルク、ケルン出身の初期ルター派神学者テオドール・ファブリツィウス(1501–1570)、バート・クロイツナハ郡マイゼンハイム出身のニコラウス・ファーバーがこの地域に登場していた。1523年、聖アウグスチノ修道会出身のヨハネス・ファン・エスヒェンは僚友ヘンドリック・ボスと共にプロテスタントの教説を説教したことを理由にブリュッセルで殉教死を遂げた。 ヘルマン・フォン・ノイエンアール(1492–1530)、ヨハネス・カエサリウス(1468–1550)、コンラート・ヘレスバッハ(1496–1576)らラインラントの著名な人文主義者たちは、ヴィッテンベルクのマルティン・ルターやフィリップ・メランヒトン (1497–1560)やチューリッヒのハインリヒ・ブリンガー (1504–1575)らと書簡をやり取りしており、一部には面識を持つ者もいた。 ラインラント地方の支配層の中には最初期の宗教改革運動に目を向ける者もいた。プファルツ選帝侯領 バート・クロイツナハ近郊のエーベルンブルク城で生まれた帝国騎士フランツ・フォン・ジッキンゲン(1481–1523)は、1522年6月エーベルンベルク城にて宗教改革者ヨハネス・エコランパッド(1482–1531)司式の下でパンと葡萄酒による二種陪餐の聖餐を受け入れた。帝国騎士で人文学者であるウルリヒ・フォン・フッテン (1488–1523)、プロテスタント神学者マルチン・ブツァー (1491–1551)、ヨハン・シュウェーベル(1490–1540)、カスパル・ヘディオ(1494–1552)らが宗教改革陣営に加わった。フランツ・フォン・ジッキンゲンの領地であったノルハイムとトライゼン(現在のラインラント=プファルツ州)は現在ラインラント福音教会(ナーエ・ウント・グラン教会地区)の管轄地である。
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