ふへん‐ろんそう〔‐ロンサウ〕【普遍論争】
ふへんろんそう 【普遍論争】
普遍論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 17:48 UTC 版)
中世スコラ哲学において、普遍論争(ふへんろんそう、英: Problem of universals)とは、「普遍」(「普遍者」ともいう、英: universals) の実在に関する論争を言う。これと内容的に同じ議論が、古代から続いており、近代哲学や現代の哲学でも形を変えて問題となっているが、普遍概念をめぐる論争として中世の論争を特にこの名で呼ぶ。
- ^ a b 山内(2007) pp.20-21
- ^ a b 永嶋哲也・周藤多紀 2011, p. 186.
- ^ 山内(2007) p.25
- ^ 例えば、創世紀のような一元的宇宙観であれば普遍(英: universe)は宇宙(universe)とも訳される。これが多元的宇宙観であれば宇宙の起源は複数の方向性を持ち一元的な起源を持たないので普遍(universe)を宇宙とは訳すことができない。この場合は、多元的方向性を持つ全体という意味でmultiverseを宇宙の語に当てることになる。
- ^ 山内(2007) p.44
- ^ 両名ともカトリックの聖人である
- ^ これらの人たちは、教皇庁と対立関係にもあった
普遍論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:50 UTC 版)
普遍論争とは、属性は存在するのか、存在するとすればそれは何なのかという問題を指す。属性とは、2 つ以上の実体に共通する性質または関係または名辞である。性質や関係などといった様々な属性を「普遍」と呼ぶ。例えば、円形という性質を共通して持つ、あるいは円形を示す、ないしは「丸いカップ」という共通した名辞を負う、3つのカップホルダーがテーブルの上にあるのを想像することができる。または、フランクの女性の子孫という共通性を持つ二人の娘を想像することができる。そのような属性は多々ある。たとえば、人間である、赤い、男性である、女性である、液体である、大きいまたは小さい、誰々より背が高い、誰々の父親である、などがある。哲学者たちは、人間が属性について話し、考えることを認める一方、これらの普遍的なものが現実に存在するのか、単に思考、言葉、見方の中に存在するにすぎないのかについては意見の一致を見ない。
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普遍論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 03:22 UTC 版)
中世西欧のスコラ哲学において、「人間」「犬」「薔薇」などは、類の概念として形相存在として実在するのかどうかという議論(普遍論争)があり、これに対し唯名論は、類の概念は実在しないと答えた。 唯名論の立場は、類の概念(普遍概念、普遍者)は、名前としてのみ存在するのであり、実在するのは類の概念の形相(フォルマ)ではなく、具体的な個物(レース)、つまり個々の具体的な人間やイヌや薔薇であると考えた。これに対する考えが実念論(普遍者実在論)で、「薔薇」とか「ネコ」などの類の概念が形相として実在するとした。 西欧では、13世紀末以降に、理性が信仰から独立して行くのと並行して唯名論が優勢となる。フランシスコ会士であるオッカムなどは唯名論の立場をとった。 唯名論を表すにvia modernaとすることがある。
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