普遍的解放の天才
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:13 UTC 版)
「ウィリアム・ロイド・ガリソン」の記事における「普遍的解放の天才」の解説
ガリソンは間もなく、奴隷制度に対する反対運動に入っていき、ボルティモアで「普遍的解放の天才」という新聞を発行していたクエーカーのベンジャミン・ランディのために記事を書き、続いて共同編集者になった。ガリソンはそれまでに印刷工と新聞編集者の経験があり、新聞の記事配置を変えたりすることができ、それで反奴隷制度の演説家としてランディがあちこちと旅をする時間を作った。ガリソンは当初、ランディの漸進主義的考え方を共有したが、「普遍的解放の天才」の仕事をしているうちに、即座に完全な解放を要求する必要があると考えるようになった。ランディとガリソンは考え方が違ってきたものの、誰がその論説を書いたかを示すために編集者の署名入りとすることで合意し、共同作業を続けた。 「普遍的解放の天才」の編集時にガリソンが紹介した連続特集記事の一つが「ザ・ブラック・リスト」であり、これは「奴隷制度の野蛮さ、誘拐や鞭打ち、殺人」を簡潔に報告するコラムであった。「ザ・ブラック・リスト」のある記事では、ガリソンの生まれ故郷マサチューセッツ州ニューベリーポートのフランシス・トッドという船荷主のことを取り上げた。トッドは奴隷貿易に関わっており、最近ではボルティモアからニューオーリンズまで、その持ち船のフランシス号で奴隷を運んでいた。トッドはガリソンとランディを名誉毀損で訴えることにし、奴隷制度の擁護側であるメリーランド州の法廷に訴え出た。メリーランド州もガリソンに対する告訴を行い、速やかにガリソンを有罪として50ドルの罰金と裁判費用を支払うように命じた。ランディはこの記事が載った時に旅しており新聞を管理していなかったとして、告訴は取り下げられた。ガリソンは罰金を払えなかったので、6ヶ月間の収監を宣告された。反奴隷制度の立場を取り博愛主義者でもあるアーサー・タッパンがガリソンの罰金を肩代わりしてくれたので、ガリソンは7週間で釈放された。ガリソンはボルティモアを離れる決心をし、ランディとは友好的に別々の道を歩むことに合意した。
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