ヴェルレーヌとベルギー、ロンドン放浪
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「アルチュール・ランボー」の記事における「ヴェルレーヌとベルギー、ロンドン放浪」の解説
グループから追放されたランボーは一旦帰郷したが、まもなくパリに戻り、ヴェルレーヌとともにベルギー、ロンドンを放浪した。情熱的で波乱に満ちた関係の始まりであった。ブリュッセルでは「さくらんぼの実る頃」を作詞したジャン・バティスト・クレマン(フランス語版)や劇作家ジョルジュ・カヴァリエ(フランス語版)などパリ・コミューンの亡命者に度々会っている。これはロンドンでも同様で、同地に亡命したコミュナールのウジェーヌ・ヴェルメルシュ(フランス語版)、ジュール・アンドリュー(フランス語版)、カミーユ・バレール(フランス語版)、『1871年コミューン史』(1876年刊行) を著したプロスペル=オリヴィエ・リサガレー(フランス語版)らに会っており、二人がいかに熱心に革命を支持していたかがわかる。 だが、マラルメに「途轍もない通行者」と称されたランボー と違って、ヴェルレーヌはパリに妻マチルドと息子ジョルジュを置き去りにしていた。1872年7月21日、ヴェルレーヌからの手紙で彼がブリュッセルにいることを知ったマチルドは母親とともに同地に向かった。彼を連れ戻すためであった。彼は二人の懇願に応じていったんは列車に乗ったものの、国境のキエヴラン駅で通関手続きのために全乗客が下車した際に姿を消してしまった。これがマチルドとの最後の別れとなった。 二人は2か月にわたってベルギーを放浪した後、9月7日にロンドンに向かった。ヴェルレーヌの旧友で後に日本文化を紹介した画家のフェリックス・レガメが当時ロンドンに滞在していた。彼もまたコミュナールで亡命中であったが、このとき、ロンドンの街をさまよい歩く二人を描いた素描を数枚残している。たまにフランス語の家庭教師をする程度で定職のない二人は、ヴェルレーヌの母親からの送金に頼っていた。このような生活を描いた詩が「飢餓の祭り」である。 1872年12月末にランボーは母親の忠告に従って、一旦シャルルヴィルに戻った。ロンドンに一人残ったヴェルレーヌが孤独に苛まれて書いた詩が、堀口大學訳「巷に雨の降るごとく、わが心にも涙降る」で知られる詩である。翌1873年1月に、ヴェルレーヌは母親に手紙を書き、病気のため会いに来てほしい、またランボーにも旅費を送って会いに来るよう伝えてほしいと要求した。こうして再び二人の放浪生活が始まった。二人はロンドン市街地だけでなく、郊外や田舎、ホワイトチャペルやイーストエンド地区のような貧民街もくまなく歩き回り、詩に表現した。散文詩集『イリュミナシオン』所収の「都市」は霧と煙に覆われた「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}生(なま)の近代都市」ロンドンを描いた詩である。 二人は幾度となく仲違いと和解を繰り返したが、ヴェルレーヌにとっては『言葉なき恋歌』(1874年刊行)、ランボーにとっては『地獄の季節』(1873年刊行)、『イリュミナシオン』(1886年に一部刊行、没後1895年に全編刊行)の制作につながる実りの多い経験であった。だが、二人の生活は結局うまくいかなかった。酒浸りの日々、取っ組み合いの喧嘩、数々の修羅場を潜り抜けた二人は、ついに互いに傷つけ合うだけの関係になる。1873年4月11日、ランボーは一人、母、兄フレデリック、妹ヴィタリーとイザベルがいる故郷のロッシュ農場に戻った。このとき、彼は長い放浪生活で消耗しきったうえに精神的な危機に陥っていた。友人のエルネスト・ドラエー宛に書いた手紙には『異教徒の書』または『ニグロの書』を書いている「私の運命はこの書にかかっている」とある。同年に『地獄の季節』として出版されることになる詩集である。
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