修道院の設立とは? わかりやすく解説

修道院の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 14:43 UTC 版)

アトス山」の記事における「修道院の設立」の解説

アトス山にはかなり早くからキリスト教修道僧住み着いてたらしいが、最初に住み始めた修道士については、当時アトス山状況記録した文献がなく、その詳細不明である。 文献アトス山記述現れるのは9世紀以降のことである。伝承によれば生神女マリア旅の途中で嵐に遭ってアトス海岸避難したとき、その美しさに心惹かれ、自らの土地としたとされている。 9世紀中期まで、アトス山には修道僧草庵散在するにすぎなかったが、862年テッサロニキのエフスィミオスが、アトス山活動する修道士集団ラヴラ)の長となり、修道院設立先鞭をつけた。870年頃には、アトス半島付け根にあたるイエリッソスに、ヨアンニス・コロヴォスが最初共同居住型の修道院建設している。その後961年アサナシオスアファナシイ)が東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスから勅許得てアトス山の麓にメギスティ・ラヴラ修道院建設すると、アトス山修道院建設活発に行われるようになった1001年には46修道院数えるほどになり、多く修道院半島の外に荘園抱え大領主の様相呈していた。 1204年第4回十字軍によってラテン帝国成立したことにより、テッサロニキ王国組み込まれアトス半島は、ほとんどの修道院荘園没収されてしまった。東ローマ帝国再興されるとこれらの荘園返還されたが、ミカエル8世パレオロゴス画策し1274年東西教会統一反対したため迫害を受け、さらに1305年には、オスマン軍対抗するためにアンドロニコス2世パレオロゴス雇ったカタルーニャアラゴン混成傭兵トラキアからマケドニア略奪し修道院もこの標的となって荒廃したまた、14世紀中期には、オスマン軍略奪行為もしばしば行われることがあったため、一部修道士アトス離れ他の地域修道院設立している。1356年設立されメテオラそのひとつである。 しかし皮肉にも東ローマ帝国影響力著しく衰えたために、かえってブルガリア帝国セルビア王国モルダヴィアルーマニアなどの東欧諸国からテッサロニキ周辺部、ストリモン川流域荘園寄進が行われるようになり、修道院は再び活力を得ることになったグレゴリオス・パラマスによって提唱される静寂主義中心地となり、帝国内で大きな宗教論争引き起こす1382年になると、アトス山オスマン帝国勢力下に入り1453年には東ローマ帝国滅亡修道院免税特権半島以外の荘園を失うことになるが、オスマン帝国修道院共同体宗教活動自治認め19世紀に至るまで、東欧諸国寄進行われ続けた1406年から女人禁制となった

※この「修道院の設立」の解説は、「アトス山」の解説の一部です。
「修道院の設立」を含む「アトス山」の記事については、「アトス山」の概要を参照ください。

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