修道院の解体と行政革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:50 UTC 版)
「トマス・クロムウェル」の記事における「修道院の解体と行政革命」の解説
ヘンリー8世とクロムウェルの宗教改革は、上記の2大法令の制定に留まらなかった。やがてその情熱は修道院の解体へと注がれることになる。修道院はイングランド国内にあるにもかかわらず、国外にある教皇庁の支配下にあるという宗教上の弊害があった上に、イングランドに800以上あり全土の4分の1ほども土地があり、年収約17万ポンドと推定され経済的にもイングランドの富を集中保有していると見なされたためである。 クロムウェルはこれら修道院の資産を王室へ移管することで、王権を強化することを進言した。1535年に宗教上の国王代理(Vicegerent in Spirituals)に指名されたクロムウェルは、宗教裁判の管轄権を有し、カンタベリーとヨークの教会管区を統合。修道院監察を命じられ半年かけて教会財産の課税台帳(教会財産査定録)を作り上げた。さらに最高首長代理となった後、1536年に年収200ポンド以下の修道院を解散対象にする小修道院解散法(英語版)を議会で通過させ、続いて1539年には全ての修道院を解散する大修道院解散法(英語版)を成立させた(修道院解散)。これに対して1536年から1537年にイングランド北部で恩寵の巡礼と呼ばれる反乱が起こったが、政府は軍を派遣して鎮圧、クロムウェルは増収裁判所を創設し修道院解散と払下げに辣腕を振るった。また1538年には教区聖職者に住民の洗礼・結婚・埋葬の記録を命じ、戸籍簿「教区簿冊」の導入を開始している。 1540年3月23日、ロンドン北東部に最後に残ったウォルサム修道院(英語版)が解散を命じられ、中世以来イングランドにおいて重要な役割を担ってきた修道院は軒並み姿を消す。そのあまりの過酷さに、修道士たちはクロムウェルを「修道士の鉄槌」(malleus monachorum)と呼んだという。一連の法令で解散させられた修道院は400以上ともいわれ、それらが所有していた土地・貴金属・宝石など財産と聖職禄は王室経済を潤したが、クロムウェルの死後ヘンリー8世によって起こされた1542年のスコットランドとの戦争(ソルウェイ・モスの戦い)、1544年のフランスとの無意味な戦争(第五次イタリア戦争)の戦費決済に費やされることになる。結局、没収された修道院の土地はやがて王室の手を離れて、約3分の2が貴族・ジェントリ(郷紳)・都市市民層へ流出した。以後も土地売却は続き、エリザベス1世の即位までに売却された土地は約4分の3に達し、大規模な土地移動はジェントリ層が成長していくきっかけとなる。 英語訳聖書の刊行も手掛け、既にウィリアム・ティンダルの英訳聖書はあったがヘンリー8世の命令で発禁になり(王とキャサリンの婚姻無効に反対したため)、1530年に王から新たな英訳聖書の編纂を命じられた司教たちの作業は遅々として進まない中、1537年8月にティンダルの助手ジョン・ロジャーズが英訳した『マシュー聖書(英語版)』を王へ届けた。見本を受け取った王の許可を得てマシュー聖書を刊行した一方、友人のマイルズ・カヴァーデイル(英語版)にティンダル訳聖書の改訂を依頼、この聖書刊行にも王の許可を取り付け、1539年4月にイングランド最初の欽定訳聖書『大聖書』として刊行された。口絵はヘンリー8世が大きく描かれ、王から聖書を受け取るクランマーとクロムウェルがそれぞれ左右に配置、彼等から聖書を渡された庶民たちが王を讃える図式であり、王が人々に神の言葉を手渡すことを表現、民衆に新しい教会体制を分かりやすく伝えるクロムウェルの意図があった。大聖書は1541年には第5版が刊行されたが、クロムウェルの死後世に出たこの聖書は1539年の初版にはあった彼の紋章が削除されている。 宗教改革の傍らでクロムウェルは「行政革命」と呼ばれる行政改革も手掛け、イングランドを理想のコモンウェルスへと近付けることに全力を尽くした。歴史家ジョフリー・エルトンはクロムウェルの改革を4つのカテゴリーに分け、宗教改革、全国的に統一された政治法律制度の確立、中央行政機構の改革、社会・経済問題の解決に纏めた。宗教改革は前述の通りに進行、政治的統一はその障害になる特権領と聖域の廃止が不可欠で、議会で次々とそうした目的に沿った法律を制定、ウェールズのイングランド統合も果たした。地方行政・司法の要となる治安判事の任命権を王に独占させる法律も成立、各州のジェントリからなる治安判事を通じて王への権力集中と地方住民の支持を目指した。中央行政機構の改革は1536年頃に国王評議会から分離した枢密院の整備と財政機構の改革、枢密院の司法機能が分離して整備された星室庁が挙げられ、枢密院は統治の要となるまでに発展、増収裁判所など収入別の組織が多く作られたことで国家財政の分離も進み、星室庁は迅速な裁判で治安維持に当たった。クロムウェルは社会・経済問題にも熱心に取り組み、議会提出で制定された法案は囲い込み抑制、浮浪者対策、都市再開発、貧民救済、織物産業強化、輸出促進など多岐に渡る問題を対象としていた。 改革が進むにつれ、クロムウェルが帯びた役職の1つ・国王秘書長官の役割が重要になっていった。この役職は元々王の私設秘書のような存在で代筆が主な仕事だったが、王の身近に仕え国内外の情報を素早く大量に集められる利点を生かし、クロムウェルは実務能力と王の信任を武器に外交・内政に関わる重要問題の決定権を握り、国王秘書長官は王の補佐役として後の首相に匹敵するほどの重職になった。国王秘書長官の役割向上はクロムウェルの個人的力量に依存していたため彼の死後は影響力を失うが、クロムウェルに秘書として抜擢されたウィリアム・セシル(後に初代バーリー男爵)がエリザベス1世に国王秘書長官として仕えて再び重要性が確認されたため、クロムウェルはセシルに統治における手本を示したといえる。 さらにクロムウェル主導の下、王国の統合が進められた。イングランド北部は恩寵の巡礼鎮圧後の1537年に設置した北部評議会(英語版)を枢密院の監督下に置いて統治、ウェールズについては合同法(英語版)が議会を通過したことで、1536年にウェールズとイングランドが統合された(イングランドおよびウェールズ)。北部の王権掌握はエリザベス1世の治世まで長い時間がかかったが、ウェールズはイングランド全体の州に再編、庶民院議席が与えられ治安判事制も導入、ウェールズ人の会話と宗教はウェールズ語が使われたままだが合同は抵抗無く受け入れられ、イングランドの行政・司法体系に組み入れられた。 アイルランドにも介入しアイルランド総督(ロード・デピュティ)の第9代キルデア伯爵ジェラルド・フィッツジェラルド(英語版)を牽制するため、アイルランド枢密院(英語版)(アイルランド評議会)の人事異動を行い総督に対するチェック機能を回復させようと図り、1534年3月にロンドンに召喚したキルデア伯を投獄した(9月に獄死)。同年6月にキルデア伯の投獄に反発した息子の第10代キルデア伯爵トマス・フィッツジェラルド(英語版)が反乱(絹衣のトマスの乱)を起こし、1535年8月のキルデア伯降伏まで鎮圧に1年かけ、1537年2月のキルデア伯処刑でイングランドはフィッツジェラルド家を排除したが、王の直接支配地域はペイルと呼ばれたダブリン周辺の東部だけに限られ、アイルランド統治に直接責任を負う立場になったイングランド王権は困難な状況に置かれ事態は改善しなかった。以後アイルランド統治に派遣された総督アンソニー・セント・レジャー(英語版)は部下のトマス・キューサクと共にアイルランド王国昇格と現地のゲール人のイングランド臣従に奔走することになる。 これらの功績により、1536年7月9日にはウィンブルドンのクロムウェル男爵として貴族に列せられ、翌1537年にガーター勲章を授けられた。さらに1539年には大侍従卿、1540年4月18日にはエセックス伯となっている。
※この「修道院の解体と行政革命」の解説は、「トマス・クロムウェル」の解説の一部です。
「修道院の解体と行政革命」を含む「トマス・クロムウェル」の記事については、「トマス・クロムウェル」の概要を参照ください。
- 修道院の解体と行政革命のページへのリンク