修道院の建設と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/21 20:33 UTC 版)
ヌルシア(現在のウンブリア州ノルチャ)の貴族の家系に生まれたベネディクトゥス(聖ベネディクト、480年頃 - 547年)は、14歳で隠遁の生活に入り、アニオ川のほとりの洞窟に3年間暮らした。ベネディクトゥスの隠修生活を物心両面で支えたのは、スビアーコの隠者ロマヌス (Romanus of Subiaco) であった。ベネディクトゥスはこの洞窟(のちにサクロ・スペコと呼ばれる)において、修道会の理念やベネディクト会の組織を着想した。彼は12の修道院を建て(そのうちの一つはサクロ・スペコであった)、それぞれに修道士が配置された。ベネディクトゥスに共鳴して多くの修道士が集まったが、地元の司教との軋轢も生じ、529年頃にベネディクトゥスは80kmほど南東のモンテ・カッシーノ(現在のフロジノーネ県カッシーノ市)に修道院を開いて移っている。 スビアーコの修道院群の中心となるサンタ・スコラスティカ修道院 (Abbey of Saint Scholastica, Subiaco) は、サクロ・スペコから1マイル半ほどの場所に位置し、もともとは520年にベネディクトゥスによって建設された修道院である。601年にロンバルド人によって破壊され、およそ1世紀にわたって放置されたが、8世紀初頭にヨハネス7世(在位:705年 - 707年)の命によって再建された。この際、ベネディクトゥスと彼の妹スコラスティカに奉献された。840年、サラセン人によって修道院は破壊されたが、854年の文書に再建が記録されている。この年に教皇レオ4世(在位:847年 - 855年)は、ベネディクトゥスとスコラスティカに捧げられた祭壇を(シルウェステル1世に捧げられた祭壇とともに)聖別したと言われている。さらに981年にはハンガリー人による破壊を受けたが、すぐに再建された。ベネディクトゥス7世(在位:974年 - 983年)は新しい教会を聖別し、修道院は聖スコラスティカに奉献されるものとなった。 1052年には、教皇レオ9世(在位:1049年 - 1054年)がさまざまな紛争の解決のためにスビアーコを訪れている。教皇グレゴリウス7世(在位:1073年 - 1085年)も同様の訪問を行い、その庇護によって修道院は大きな富と権勢を持った。グレゴリウス7世によって枢機卿に叙された修道院長ヨハネス5世は、洞窟を年ごとの巡礼の目的地として整備し、新しい道路を建設して祭壇を聖別した。スビアーコの修道院に特別な好意を寄せた教皇パスカリス2世(在位:1099年 - 1118年)により、スビアーコの修道院はティヴォリ司教の管轄から独立した(現代も、教会行政上スビアーコ周辺には司教区ではなく修道院区 (Territorial abbey) が設定されている (it:Abbazia territoriale di Subiaco) )。1203年には教皇インノケンティウス3世が修道院を訪問し、修道院の資産はさらに増加した。
※この「修道院の建設と発展」の解説は、「スビアーコ」の解説の一部です。
「修道院の建設と発展」を含む「スビアーコ」の記事については、「スビアーコ」の概要を参照ください。
- 修道院の建設と発展のページへのリンク