修道院の雰囲気を求めて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 09:12 UTC 版)
「修道女アンジェリカ」の記事における「修道院の雰囲気を求めて」の解説
たまたまプッチーニの2歳年長の姉イジーニアは修道女であった。プッチーニ家という代々の音楽家一家に生まれただけあって、彼女も修道院で長年オルガン奏者を務め、この1917年頃は一家の出身地ルッカ近く、ボルゴペラゴの修道院長の地位にあった。プッチーニはこの姉を通じて、女性が修道院に入るに至るには様々の隠されたいきさつがあることや、噂話に明け暮れる彼女たちの日常などに通じていた可能性もある[要出典]。プッチーニは「修道院の雰囲気を取材したい」として姉の元を訪問し、その際、修道女たちを広間に集め、スケッチ段階の曲を自ら歌い、かつピアノを弾いたという。彼には「主人公がキリスト教で大罪とされる自殺を図る」という物語が受け入れられるだろうか、との懸念があったが、弾き語りを聴いた多くの修道女が感涙にむせぶのを見て、彼はこの作品の出来栄えに確信をもったと伝えられる。 修道院の描写をするにあたってプッチーニが依拠したもう一人は、旧友ピエトロ・パニケッリ神父である。以前にもプッチーニはこの神父に『トスカ』第1幕のテ・デウムの場面の典礼文作成、および同第3幕開始直後に用いる目的でローマ市街に響き渡るさまざまの教会の鐘の音色の採譜を依頼したことがある。この『アンジェリカ』でプッチーニは、フィナーレの奇蹟の場面で天使らによって歌われる聖母マリア賛歌のための適切なラテン語のテクスト選定を同神父に依頼している。 しかし、プッチーニはそれほど信仰心に篤い人間ではなく、こうした「修道院らしさ」の再現のための努力は単によりよい劇場効果を得るためだったようである[要出典]。実際プッチーニは、上述のパニケッリ神父の手になるラテン語詞文に曲を付けるに当たって、それを(不謹慎にも)「マドンナの行進曲」と自ら称し、茶化したりもしている。
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