1741年夏から秋にかけての交渉
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「第一次シュレージエン戦争」の記事における「1741年夏から秋にかけての交渉」の解説
ヨーロッパ諸国はオーストリアがモルヴィッツの戦いで敗れ、プロイセン軍の侵攻を阻止できなかったことに勇気づけられ、オーストリアへの攻撃に踏み切った。これにより戦争は単なるシュレージエンをめぐる紛争にとどまらずオーストリア継承戦争に発展した。フランスは1741年6月5日のブレスラウ条約でプロイセンによるシュレージエン奪取を支持、7月にはニンフェンブルク同盟に加入して、スペインとともにバイエルンによるオーストリアへの領土主張を支持した。8月15日、フランス軍はライン川を渡り、ドナウ川でバイエルン軍と合流した後ウィーンへの進軍を開始、スペインとナポリの連合軍はイタリア北部のオーストリア領に攻撃を仕掛けた。オーストリアの同盟国だったザクセンもフランスとの同盟に鞍替えし、イギリスはハノーファーがフランス軍とプロイセン軍に攻撃されないよう中立を宣言した。 マリア・テレジアは自領の諸国に分割されることを防ぐべく、数か月かけて反撃を準備した。まず6月25日にプレスブルクでハンガリー女王として戴冠(英語版)した後、ハンガリーからの徴兵を試みた。8月にはプロイセンに対し、シュレージエンから撤退する代償として賠償金とネーデルラントにおける領土割譲を提案したが、すぐに拒否された。その間にも諸国はオーストリアへの侵攻を進め、ザクセン軍はボヘミアに侵攻、フランス=バイエルン連合軍は9月14日にリンツを占領した後、オーバーエスターライヒ経由で進軍、10月にはウィーン近郊まで到着した。フリードリヒ2世はオーストリアの情勢不利に乗じて、ブレスラウでナイペルクとの秘密講和交渉を始めたが、公的にはニンフェンブルク同盟への支持を続けた。 プロイセンはフランスと同盟していたが、オーストリアの破滅によりフランスやバイエルンがドイツの覇権を握ることはフリードリヒ2世も望まなかった。イギリスの催促と仲介により、オーストリアとプロイセンは10月9日にクラインシュネレンドルフの密約と呼ばれる秘密停戦協定を締結した。この密約により、オーストリアとプロイセンはシュレージエンにおける戦闘の継続を装いながら実際には停戦し、オーストリアは年末までに交渉される講和条約で下シュレージエン(英語版)を割譲することに同意した。その後、ナイペルク率いるオーストリア軍はシュレージエンからオーストリアに呼び戻され、11月初にナイセで見せかけの包囲戦を戦ったのちにナイセを放棄したことで、シュレージエン全体がプロイセンの手に落ちた。
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