1740年 - 1770年
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「オペラ・セリア」の記事における「1740年 - 1770年」の解説
メタスタージオ風は1750年代を通して頂点を極めた後、人気を失いだした。代わって、ニコロ・ヨンメッリやトンマーゾ・トラエッタといった作曲家によって大衆化された新傾向がオペラ・セリアの中に浸透していった。レチタティーヴォとアリアが鋭いコントラストで交互に歌われるイタリア様式のパターンは、フランス・オペラの伝統の楽想により弱まりはじめた。1740年以降のヨンメッリの作品は、大きなレベルの伴奏付きレチタティーヴォとダイナミック・コントラストを導入し、オーケストラの重要性と歌手の技巧の制限を増大した。一方、トラエッタはオペラの中にバレエを再び導入し、古典劇にあった悲劇的・メロドラマ的な結末を復帰させた。とくに1760年以降のトラエッタのオペラは、合唱をより重要なものに戻した。 こうした改革の頂点は、クリストフ・ヴィリバルト・グルックの改革オペラだった。『オルフェオとエウリディーチェ』にはじまり、グルックは歌手に与えられる名人芸の見せ場を徹底的に削減した。レチタティーヴォ・セッコを廃し(それによって、レチタティーヴォとアリアの輪郭描写は大量に減る)、イタリア・オペラとフランス・オペラの伝統を統合した中での、芝居・踊り・音楽の一体化に留意した。グルックは続いて『アルチェステ』、『パリーデとエレーナ』(英語版)で改革を続けた。グルックはオーケストレーションとますます重要な役割を持たされた合唱に最大の注意を払った。さらに、それまでの「退場アリア」の伝統も減じた。バロック初期のオペラをわかりにくくした迷宮のように複雑なサブプロットは除去した。1768年、グルックの『アルチェステ』の後、ヨンメッリと台本作家のヴェラージは『Fetonte』を上演した。アンサンブルと合唱が主役となり、退場アリアの数は半減した。しかし、こうした傾向は1790年代までは主流ではなかった。メタスタージオ風規範はいまだ優勢であった。
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