1739年の遠征
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1736年のオグーラ・チェトカとアキアでの大敗北の後、北ルイジアナと南ルイジアナは、チカソー族が分断したままだった。チョクトー族はチカソー族に対して容赦ない圧力を掛け続けていた。ド・ビエンビーユは本国からの命令を受けて、即座に2回目の大遠征の準備を始めた。今回は包囲戦用の武器を補い、前回欠けていた協働行動の準備も整えた。大砲、工兵技師および工夫を揃えた。兵士も多く、馬、平素の肉、兵士と物資のための前線基地、軍と装備を運ぶための道までを準備した。 ド・ビエンビーユは、技師の調査から大砲をチカソー族の集落のある高地まで運べるという保証を得て、今回はミシシッピ川を遡る経路を選んだ。ミシシッピ川がセントフランシス川と合流する場所の西堤に資材貯蔵所を建てた。ヌーベルフランス中の兵士を受け取るために現在のウルフ川マーゴットのミシシッピ川の対岸第4チカソー絶壁にド・ラサンプシオン砦を造った。 1739年8月の集合には3つの分遣隊が到着した。ド・ノヨーはニューオーリンズの衛兵を、デ・ラ・ビッショニエールはシャルトル砦から民兵と200名のイリノイ族を、およびセロロンは相当数の北方インディアンとカナダの士官学校生中隊を連れてきた。1736年のように南部軍は遅かった。ド・ビエンビーユは11月になってやっと到着し、軍勢を検分した。総勢は1,200名の白人と2,400名のインディアンであり、1736年の攻撃時のおよそ2倍であった。 しかし、軍隊は既に疫病に災いされていた。このことに加えて、その後の月の「愚行」の間、食糧不足、不満、脱走がついて回った。チカソー族集落までは190km残っていて、ライフル銃だけの兵士には大したことが無い距離であるが、包囲戦用武器を運ぶ部隊には大変なことだった。兵士は荷車や馬車を作ったが、ド・ビエンビーユは工兵技師によって計画された道を通ることとしていたので歩みは鈍く、雨で通行が難しくなった。1740年1月までに、高地の道が切り開かれたが、そうしている間にも雨で物資の供給が妨げられ、状況は耐え難いものになってきた。軍隊の様相は保っていたものの、2月になって作戦会議が開かれ「王の軍隊という評判を汚すことなくしてこれ以上進めない」という結論に達した。 3月になって遂に、セロロンが士官学校生中隊、100名の正規兵および400ないし500名のインディアンを率いて先行することになった。部隊は1736年にダルタギエットが辿ったのと同じ道を進み、直ぐに集落に到着した。セロロンはインディアン達に何をしても良いと告げ、一方で和平の申し出にも対応できるようにしていた。数日の間小競り合いが続き、交渉が行われることになった。チカソー族はチョクトー族から圧力を受け続けており、今回はド・ラサンプシオン砦で十分な準備がなされていることを知っていたので、妥当と考えられる慣習的な提案を受けるものと思っていた。フランス軍は残っているナチェズ族の者を全て解き放つよう要求した。チカソー族は、ナチェズ族が皆狩りに行っているか、あるいは永久にチカソー族の土地を離れたと返答したが、何人かのナチェズ族とフランス人捕虜を引き渡すことで和平がなった。 チカソー族はその後数年間温和しくしていたが、イギリスとの交易は続け、その攻撃的姿勢を再開することで失う物は何も無かった。包囲戦用兵器は未開の荒野を通ってはチカソー族集落まで届かなかった。軽装の兵士のみがやってくることができたが、その防御を施された集落には通用しなかった。 ド・ビエンビーユは力なく勝利を宣言した。勝利ではないとしても、少なくとも可能な予防措置は取られたと主張した。しかし、この遠征にはルイジアナ植民地全体の通常の年間予算から考えるとその3倍の費用を要し、しかも何も目に見える成果を残せなかった。ド・ラサンプシオン砦にいた1200名の白人のうち500名を含み病気で数百名が死んだ。何ヶ月も時間を要したことに明確な説明は加えられなかった。国内政治および重い装備なくして戦闘には行きたくないということが、あり得る理由とされた。
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