マリア・テレジアの改装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/27 09:43 UTC 版)
「ブラチスラヴァ城」の記事における「マリア・テレジアの改装」の解説
1740年にマリア・テレジアがハンガリーの女王となった際、王国の貴族たちにオーストリアとハンガリーの両方に住むことを約束した。そして約束を守り、多くの時間をこの城で過ごした。1761年から1766年に、城は(当時の)近代的王居に改装された。 しかし、小さな変更では早いものは1740年から行われ、内部の様々な変更に加えて、大きな庭が北側に造営され、植物学に興味があった夫の皇帝フランツ1世が城の東に小さな庭を造営した。 七年戦争では、ハンガリー騎士団が城に駆けつけ、マリア・テレジアを支えた。 ハンガリー貴族との対立により、マリア・テレジアは貴族の代表者であるナードル(宮中伯)を任命せず、1765年に女王派の貴族を総督に任命した。この城は総督の居所となり、政庁ではなくなった。1765年からの2代目の総督には、女王の娘マリア・クリスティーナの婿アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンが任命された。夫妻は1766年に移り住んだ。この夫妻は科学と文化に明るく、街の科学と文化を発展させた。 総督の居所としては手狭であったため、1767年から1770年にかけて城の東壁に新しい宮殿(後にテレジアヌムと呼ばれる)が建てられた。高級家具や多くの芸術品が運び込まれた。1階にはファミリーギャラリーがあり、後に今日のウィーンにあるアルベルティーナ美術館の基礎となった。 さらに、城の北端には冬の乗馬校が、城の庭には夏の乗馬校が直接配置された。両方の城の庭園が(シェーンブルン宮殿スタイルで)改装され、灯油を使った夜間照明が初めて城への接続道路に導入された。 1770年、マリア・テレジア自ら、貴重な絵画や家具を主城とテレジアヌムの両方に備えるよう命令し、総督は完成したテレジアヌムに移った。マリア・テレジアもほとんど非公式に頻繁に訪れていた。
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