マリア・テレジア秘策とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > マリア・テレジア秘策の意味・解説 

マリア・テレジア秘策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)

第二次シュレージエン戦争」の記事における「マリア・テレジア秘策」の解説

このような精神的影響顧慮する勝利が特に重要であることを注意するために、ゾール会戦だけを指摘しておく。この会戦戦利品はさほど大ではなかった(捕虜数千火砲二十門)。しかしフリードリヒ大王は、すでにシュレージエンへの退却決意し、また軍の情況から推してこの退却十分な根拠有したにも拘らず、彼はなお五日戦場保持して初め戦勝布告したフリードリヒがみずから語っているように、彼はこの戦勝による精神的圧力をもって講和招来し得ると考えたのである。尤もこの講和実現するにはなお二回の戦勝が必要であった。即ちラウジッツ地方のカトーリッシュ‐ヘンネルスドルフの戦闘とケッセルスドルフの会戦とにおける勝利である。しかし何びとといえどもゾール会戦与えた精神的効果であったと言い切ることはできまいクラウゼヴィッツ解説するように、大王期待外れた。いまや女帝皇后となったマリア・テレジアは、ロシア参戦承諾得てプロイセン対し三方向からの大規模な攻撃企図していたからである。 その内容は、まず第一にカール公子軍をラウジッツ入れてザクセン軍の一部合流させ、そこから北東進出してオーデル川出てプロイセン本国シュレージエンプロイセン軍連絡断ちそのうえで東からベルリンを狙う。第二に、ザクセンからザクセン主力部隊であるルトフスキー軍をマクデブルク進出させて冬営中のマクデブルク軍を攻撃敗走させ、そのあとブランデンブルク直進させて西からベルリンを狙う。この二つ攻撃応援するためにオーストリア軍は、ライン方面からグリュネの部隊ザクセン転進させてルトフスキー軍とカール公子軍の東西間隔埋めハンガリー勢の一部に下シュレージエンへの侵入試みさせることでプロイセン注意をそちらに惹きつける第三に、ロシア軍応援のためにポーランド経由ザクセン本国部隊進出させ、同時に東プロイセン攻撃する。 この構想オーストリア継承戦争においてオーストリア企図した作戦中でもっとも大規模なもので、もしこれが成功したならば、今年戦役終わったものと思い込んで冬営入っていたプロイセン軍は敵の侵入への対応が遅れ、プロイセン主要な軍勢力であるシュレージエン軍とマクデブルク軍はそれぞれベルリンから分断された状態で各個撃破され、ベルリンわずかな守備隊だけで敵に直面することになり、そこへさらにロシア攻撃重なることになったであろうプロイセンとの戦い戦力集中させたい女帝は、もしこの作戦成功するようなら、かなりの譲歩行ってでもフランスとただちに講和しようとも考えていた。もっともこの作戦は、プロイセン軍がこちらの攻撃すばやく反応した場合、ルトフスキー軍はマクデブルク軍と、カール公子軍はシュレージエン軍とそれぞれ本格的な会戦を行わざるを得ずカール公子自軍敗戦続き著しく消耗しており、士気沈滞して装備補充進んでいないことからそのリスク恐れてこの作戦反対だった。 三カ国によるプロイセン攻撃計画は、ザクセン宰相ブリュールスウェーデン大使にその存在漏らしたことから、駐ベルリン・スウェーデン大使通じてただちに大王報告された。これを聞いて大王はポデヴィルスと老デッサウ招集し検討会議開いた両者はともに作戦実施困難さザクセン戦意疑ってこの情報懐疑的で、しばらく様子を見るよう大王提案したが、大王は敵の意図正しく判断しただちに対抗作戦立案して2人にその準備命じた大王各部隊ひそかに戦闘準備整えさせることだけをさせて、自軍をすぐに動かすことはしなかった。大王作戦は、まず、自国オーストリア軍行動には気が付いてないよう見せかけることによって、ラウジッツ向けて行軍中のカール公子軍を国境近くまで引きつけ、そこで大王率い主力部隊強襲をかける。次にハレ集結したデッサウ軍がザクセン進出しザクセン軍を撃破する、というものであったベルリン防衛にはハッケ少数部隊与えるだけに留め大王野戦によってすみやかに主戦力を無力化しロシア介入前に決着をつけることを狙っていた。 11月大王シュレージエンに移るとヴィンターフェルトに3千の兵を与えてザクセンとの国境であるボーベア川とクヴァイス川の地域に展開させ、敵斥候侵入阻止するとともに敵軍行動偵察させた。また上シュレージエンからナッサウ呼び戻してシュレージエンベーメンとの国境を守らせ、自らは主力とともに動くことなく時期待ったカール公子軍はヴィンターフェルトによって視界塞がれたまま、フランクフルト・アン・デア・オーデルへの進軍目指しラウジッツ入った連合軍ナイセ川とクヴァイス川の間に展開し右翼のクヴァイス川をザクセン軍が守っていた。 11月23日プロイセン軍強行軍でもって一気に敵に接近ナウムブルクでクヴァイス川左岸に渡るとヘンネルスドルフの戦いザクセン軍を急襲してこれを敗走させた。25日にはオーストリア軍物資集積基地としていたゲルリッツ攻撃して占領した。敵の行動を全く把握していなかったカール公子軍はプロイセン軍攻撃に対応できず、ザクセン軍を援護することもゲルリッツを救うこともできなかった。大王ゲルリッツ落とした後すオーストリア軍主力撃滅ようとしたが、カール公子ゲルリッツ陥落作戦必要だった物資失いうかうかしているとツィッタウ先回りされて補給線を完全に断たれるため、当初の目的早々に放棄してベーメン退却した。この一連の戦闘で、プロイセン軍ごくわずか損害目的達成したのに対しオーストリア軍大量物資加えて5千の兵を失ったとされるラウジッツにおいて敵軍下した後、ゲルリッツ本営置いた大王はしばらく兵を休めて強行軍によって乱れた軍を整える間に、ヴィンターフェルトシュレージエンナッサウ援護回し、レーヴァルト軍を本隊先駆けて西進させた。ナイセエルベの間をつないでいたグリュネ軍は、カール公子軍の敗北とレーヴァルト軍の接近知って西に撤退し、ルトフスキー軍と合流した。 そのころハレ進発した老デッサウ軍はライプツィヒ占領エルベ川転進してトルガウを攻略していた。ロシア介入前にザクセン戦争から脱落させたい大王は老デッサウ速やかに進撃せよと命じていたのに、老デッサウはいちいち補給倉庫パン焼き窯を設置してからでないと軍を進ませなかった。大王度重なる速戦即決命令対し長老たる老デッサウ容易に従わず自分流戦争やり方に拘った。 しかしこの間ガベルからリトメリッツでエルベ川出たカール公子軍がザクセン急行しつつあり、はやくルトフスキー軍を撃破しなければカール公子軍と合流されてしまう可能性があった。敵戦力各個撃破を望む大王は自らもバウツェン経てドレスデンに向かう一方、老デッサウにただちにドレスデン攻めるよう重ねて命令した12月12日ゴルツ先鋒とする老デッサウ軍はマイセン占領しマイセン渡ってきたレーヴァルト軍と合流した13日には一旦ドレスデン向けて行進しかけたところ、ロエル率いザクセン竜騎兵部隊襲撃を受け、これを退けた翌日再びドレスデン向けて行軍開始したプロイセン軍15日ドレスデンの北で待ち受けていたルトフスキー軍に会戦挑みケッセルスドルフの戦い勝利した

※この「マリア・テレジア秘策」の解説は、「第二次シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「マリア・テレジア秘策」を含む「第二次シュレージエン戦争」の記事については、「第二次シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「マリア・テレジア秘策」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マリア・テレジア秘策」の関連用語

マリア・テレジア秘策のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マリア・テレジア秘策のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第二次シュレージエン戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS