デッサウ【Dessau】
デッサウ
デッサウ
デッサウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 19:38 UTC 版)
「ヴァイマル、デッサウ及びベルナウのバウハウスとその関連遺産群」の記事における「デッサウ」の解説
デッサウ時代に、バウハウスは顕著な方向性の転換を図った。エレーヌ・ホフマンによれば、グロピウスは新しい建築プログラムの遂行のために、オランダ人建築家のマルト・スタム(Mart Stam)に接触した。スタムに断られると、ABCグループでのスタムの友人で同僚だったハンネス・マイヤーに切り替えたが、グロピウスはこの決定を悔やむことになる。 カリスマ性を持ったマイヤーは、1928年2月には2代目学長の座におさまり、バウハウスに2つの最重要な建築物の委託を取り付けた。その2つとは、デッサウの5棟の片廊下式集合住宅と、ベルナウの全ドイツ労働組合総連合(ADGB)の連合学校本部棟であり、それらは現存している。マイヤーは、顧客へのプレゼンテーションで計測と計算を好み、コスト削減のために規格品の建築部品を使うことも好んだ。このアプローチは潜在的な顧客をひきつけ、1929年には彼のリーダーシップのもとで、バウハウスは最初の収益を上げた。 しかし、マイヤーは多くの衝突も引き起こした。ラディカルな機能主義者として、彼は審美的なプログラムには我慢がならなかったので、長く指導に当たってきたヘルベルト・バイヤー、マーセル・ブロイアーらに辞職を迫った。口煩い共産主義者としては、彼は共産主義的な学生団体の結成を後押しした。政治的状況が剣呑としたものになるにしたがって、こうした振る舞いはデッサウのバウハウスの存続や関わりのある人々の安全を脅かすものとなった。マイヤー自身が生徒の一人と関係をもった性的なスキャンダルで危うくなったので、グロピウスは1930年に彼を解雇した。 デッサウのバウハウスも1932年に閉鎖されて、ベルリンへと移った。
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