アウグステ・フォン・アンハルト=デッサウとは? わかりやすく解説

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アウグステ・フォン・アンハルト=デッサウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 08:46 UTC 版)

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アウグステ・フォン・アンハルト=デッサウ
Auguste von Anhalt-Dessau
シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯妃
在位 1816年4月15日 - 1854年6月12日

出生 (1793-08-18) 1793年8月18日
神聖ローマ帝国
アンハルト=デッサウ侯領、デッサウ
死去 (1854-06-12) 1854年6月12日(60歳没)
シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国、ルードルシュタット
埋葬 シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国、ルードルシュタット墓地
結婚 1816年4月15日 デッサウ
配偶者 シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯フリードリヒ・ギュンター
子女 フリードリヒ・ギュンター
ギュンター
グスタフ・アドルフ
家名 アンハルト=デッサウ家
父親 フリードリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ
母親 アマーリエ・フォン・ヘッセン=ホンブルク
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アマーリエ・アウグステ・フォン・アンハルト=デッサウAmalie Auguste von Anhalt-Dessau, 1793年8月18日 - 1854年6月12日)は、ドイツのアンハルト=デッサウ家の公女で、シュヴァルツブルク=ルードルシュタットフリードリヒ・ギュンターの最初の妻。

アンハルト公世子フリードリヒとその妻でヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ5世の娘であるアマーリエの間の第1子、長女として生まれた。1816年4月15日にデッサウにおいて、母親同士が姉妹の従兄妹同士であるフリードリヒ・ギュンター侯と結婚した。親切で慈悲深い侯妃として領民に深く慕われ、学問や芸術への援助を惜しまなかったとされる。1854年に死去し、ルードルシュタットの侯爵家霊廟に葬られた。夫は1855年、アウグステの弟ゲオルク貴賤結婚でもうけた娘であるヘレーネ・フォン・ライナ伯爵夫人(1835年 - 1860年)と再婚した。

子女

夫との間に3人の息子をもうけたが、いずれも両親より先に亡くなった。

  • フリードリヒ・ギュンター(1818年 - 1821年)
  • ギュンター(1821年 - 1845年)
  • グスタフ・アドルフ(1827年 - 1837年)

参考文献

  • L. Renovanz: Chronik der fürstl. Schwarzburgischen Residenzstadt Rudolstadt, S. 49, L. Renovanz, 1860
  • S. Obbarius: Rudolstadt u. seine romantischen Umgebungen, L. Renovanz, 1853



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