ハンネス・マイヤー
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ハンネス・マイヤー(Hannes Meyer, Hans Emil Meyer; 1889年11月18日 - 1954年7月19日)は、スイス・バーゼル出身の建築家、都市計画家、建築についての教育者。
人物
スイス、ドイツ、イギリスで建築を学ぶ。ハンス・ウイットワーと事務所を開き、国際連盟本部のプロジェクトなどを設計した。1916年から1918年までエッセンのクルップで部長を務めた[1]。1928年には、CIAM(近代建築国際会議)にも参加。
1928年からバウハウスの第2代校長を務め、バウハウスとしてはじめて本格的な建築課程(建築科)を設置した(バウハウスが当初から建築を重視していることから考えると、遅きに失しているとの評価あり)。しかし、1931年には、公然たる共産主義者だったため、校長を解雇された[2]。
その後、高等建築建設学院ヴァシの招きでソ連(モスクワ)に亡命し、8人のメンバーで活動。高等技術教育学院の建設委員キプロットラスに所属し、教育施設などを手がける。ソ連には1937年まで滞在し、その間の1935年から建設学院の東シベリアおよび極東部長、建築アカデミーハウジング建設部局長などを歴任。 スイス、メキシコにおける教育活動を経て、スイスに戻る。
実作品としては、ADGB(全ドイツ労働組合総連合; Allgemeiner Deutscher Gewerkschaftsbund)の連合学校(ベルナウ, Bernau bei Berlin)が有名。
ソ連の都市計画でも、ニジニ・クリンスク、1932年のゴーリキ、ユダヤ自治州州都のビロビジャンなどの計画を多く手がけた[3]。
参考文献
- 「ポストヒューマニズムの建築 ハンネス・マイヤーとルートヴィヒ・ヒルベルザイマー」 K.マイケル・ヘイズ 松畑強訳 鹿島出版会 1997年
参照
- ^ Bauhaus, 1919-1933, by Magdalena Droste, Bauhaus-Archiv, page 248
- ^ Richard A. Etlin editor, Art, culture, and media under the Third Reich, page 291, ISBN 0-226-22087-7 ISBN 978-0-226-22087-1
- ^ “Hannes Meyer and the Red Bauhaus-Brigade in the Soviet Union (1930-1937)”. thecharnelhouse.org (30 May 2013). 2025年1月2日閲覧。
関連項目
固有名詞の分類
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