第一次シュレージエン戦争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 第一次シュレージエン戦争の意味・解説 

第一次シュレージエン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/15 20:24 UTC 版)

第一次シュレージエン戦争(だいいちじシュレージエンせんそう、ドイツ語: Erster Schlesischer Krieg)は、1740年から1742年にかけてシュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンオーストリア戦争オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、18世紀中期に戦われた一連のシュレージエン戦争の始まりである。訳の違いからシレジア戦争とも呼ばれるが、本項では「シレジア」は「シュレージエン」に統一している。


注釈

  1. ^ 兵士20名、将校2名。またある竜騎兵の妻が渡河の際に溺れて死亡したという。これがプロイセン軍の全損害であった[30]
  2. ^ 例えば、カール・フォン・クラウゼヴィッツ戦争論では「またこれより先フリードリヒ大王は、旧套になずんで安逸を貪るオーストリア軍を急襲して、オーストリアの国家を震撼したではないか。中途半端な政治と融通のきかない戦争術とをもって敵に当たろうとする内閣こそ憐れである。」と述べられている[32]

出典

  1. ^ a b c d Fraser 2000, pp. 70–71.
  2. ^ Browning 2005, p. 527.
  3. ^ Carlyle 1858, pp. 282–286.
  4. ^ Hirsch 1881, p. 175.
  5. ^ Hirsch 1881, p. 176.
  6. ^ Carlyle 1858, pp. 339–342.
  7. ^ Carlyle 1858, pp. 357–358.
  8. ^ a b Carlyle 1858, pp. 364–367.
  9. ^ Anderson 1995, p. 59.
  10. ^ a b Fraser 2000, p. 69.
  11. ^ a b Clark 2006, p. 190.
  12. ^ Anderson 1995, pp. 61–62.
  13. ^ Anderson 1995, p. 80.
  14. ^ Clark 2006, pp. 192–193.
  15. ^ Asprey 1986, p. 24.
  16. ^ a b c Clifford 1914, p. 3100.
  17. ^ Macdonogh 2001, p. 147.
  18. ^ Fraser 2000, p. 70.
  19. ^ Clark 2006, p. 191.
  20. ^ a b c d e f Black 2002, pp. 102–103.
  21. ^ Clark 2006, p. 194.
  22. ^ a b c Clark 2006, p. 183.
  23. ^ Anderson 1995, p. 69.
  24. ^ Friedrich II, King of Prussia 2009, p. 3.
  25. ^ Clark 2006, pp. 183, 192.
  26. ^ Carlyle 1862a, pp. 210–213.
  27. ^ Fraser 2000, p. 84.
  28. ^ Carlyle 1862a, pp. 218–219.
  29. ^ Asprey 1986, p. 177.
  30. ^ フィッシャー=ファビアン 1981, p. 21.
  31. ^ Duffy 1985, p. 27.
  32. ^ クラウゼヴィッツ 1968, p. 337.
  33. ^ Fraser 2000, p. 88.
  34. ^ Carlyle 1862a, pp. 300–301.
  35. ^ Fraser 2000, pp. 87–88.
  36. ^ Fraser 2000, pp. 89–93.
  37. ^ Carlyle 1862a, pp. 361–363.
  38. ^ Carlyle 1862b, pp. 411–412.
  39. ^ Clark 2006, pp. 193–194.
  40. ^ a b Shennan 2005, p. 43.
  41. ^ Asprey 1986, p. 181.
  42. ^ Asprey 1986, p. 223.
  43. ^ Browning 1993, p. 80.
  44. ^ Crankshaw 1970, p. 75.
  45. ^ Crankshaw 1970, p. 77.
  46. ^ Browning 1993, p. 66.
  47. ^ Anderson 1995, p. 81.
  48. ^ a b Fraser 2000, p. 97.
  49. ^ a b c d Holborn 1982, p. 213.
  50. ^ Carlyle 1862b, pp. 483–487.
  51. ^ Asprey 1986, pp. 223–224.
  52. ^ Fraser 2000, p. 103.
  53. ^ Holborn 1982, p. 211.
  54. ^ Anderson 1995, p. 90.
  55. ^ a b Carlyle 1862b, pp. 513–519.
  56. ^ Fraser 2000, pp. 105–106.
  57. ^ Fraser 2000, p. 106.
  58. ^ Carlyle 1862b, pp. 538–544.
  59. ^ a b Carlyle 1862b, pp. 547–549.
  60. ^ a b Hochedlinger 2003, p. 252.
  61. ^ Friedrich II, King of Prussia 2009, p. 4.
  62. ^ Carlyle 1862b, pp. 560–563.
  63. ^ Browning 1993, p. 103.
  64. ^ Carlyle 1862b, pp. 574–575, 578.
  65. ^ Fraser 2000, p. 120.
  66. ^ a b Carlyle 1862b, pp. 581–586.
  67. ^ a b c Fraser 2000, p. 121.
  68. ^ Fraser 2000, pp. 135–136.
  69. ^ a b Fraser 2000, pp. 134–135.
  70. ^ a b Holborn 1982, pp. 214–215.
  71. ^ "Silesian Wars". Encyclopædia Britannica (英語).
  72. ^ Browning 1993, p. 181.
  73. ^ Fraser 2000, p. 310.
  74. ^ Clark 2006, p. 192.
  75. ^ Fraser 2000, pp. 130–131.
  76. ^ a b Clark 2006, p. 196.
  77. ^ Schweizer 1989, p. 250.
  78. ^ Clark 2006, p. 216.
  79. ^ Fraser 2000, pp. 122, 135, 151.
  80. ^ Fraser 2000, pp. 297–301.
  81. ^ Fraser 2000, p. 133.
  82. ^ Fraser 2000, pp. 126–127.
  83. ^ Fraser 2000, pp. 107–109.
  84. ^ Fraser 2000, p. 139.
  85. ^ Clifford 1914, p. 3103.


「第一次シュレージエン戦争」の続きの解説一覧

第一次シュレージエン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:43 UTC 版)

オーストリア継承戦争」の記事における「第一次シュレージエン戦争」の解説

詳細は「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年皇帝カール6世没すると、プロイセン王ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世は、皇帝選挙マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン投票することを条件シュレージエンシレジア地方いくつかの領地割譲求めたシュレージエン地方フリードリヒ2世求めた背景としては、まず同地方が経済的に重要なオーデル川有し南部ベーメンボヘミア)・メーレンモラヴィア)との境界軍事的に重要な山脈位置し、さらに侵攻に際して後方連絡線確保比較的に容易であり、加えてオーストリア軍勢力相対的に寡少であると評価したことがあるオーストリア宮廷要求拒否したのに対しプロイセン軍は、バイエルン・フランス・ザクセンなどの支持準備して1740年12月16日オーストリアの不意を突きシュレージエン侵攻したプロイセン軍はいくつかの要塞を除くこの地方大部分占領し、冬を過ごす。マリア・テレジアフリードリヒ2世侵略激怒し主力であるナイペルク兵団転進させてシュレージエン地方奪回作戦企図する。翌1741年3月末にはオーストリア軍プロイセン軍根拠地求めて迂回のために北進し、プロイセン軍防勢となる。 そこでフリードリヒ2世決戦することを決心し1741年4月10日にモルヴィッツでプロイセン軍2万オーストリア軍2万戦い火力に勝るプロイセン軍オーストリア軍撃退された。この敗北ハプスブルク家対す各国介入を招く結果となり、また、新興国であったプロイセンの台頭効果的に印象付けプロイセン軍野戦司令部各国外交使節訪れることとなったこうした経過もあり、同年5月28日ニンフェンブルク条約締結されバイエルンフランススペインの3か国が同盟結んだ。さらに、プロイセンザクセン加わりオーストリア西方包囲される至ったマリア・テレジア6月25日ハンガリー女王として戴冠した議会との折衝経てハンガリー救援得たものの、コトゥジッツの戦い敗北契機に、1742年7月イギリス仲介得てシュレージエン大部分ベーメンの1郡をプロイセン割譲する講和密約ベルリンの和)を締結した

※この「第一次シュレージエン戦争」の解説は、「オーストリア継承戦争」の解説の一部です。
「第一次シュレージエン戦争」を含む「オーストリア継承戦争」の記事については、「オーストリア継承戦争」の概要を参照ください。


第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:17 UTC 版)

フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の記事における「第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)」の解説

戦役詳細については「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年10月20日神聖ローマ皇帝カール6世急逝した国事詔書によってハプスブルク家領は娘のマリア・テレジア相続したフリードリヒ2世はこれを承認する見返りボヘミア王冠領ハプスブルク帝国構成国)のシュレージエン現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の割譲求めたが、マリア・テレジア拒否したフリードリヒ2世1740年12月16日宣戦布告することなしシュレージエン侵攻した(第一次シュレージエン戦争の開始)。先帝カール6世の遺した国事詔書反故にしての進軍だった。シュレージエン急襲成功しプロイセン軍はわずか戦死22人の損害占領成功した。これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家当主マリア・テレジアフリードリヒ2世生涯宿敵となった。翌1741年4月10日モルヴィッツの戦いプロイセン圧勝収めプロイセンの台頭各国印象付けることに成功する5月にバイエルン・フランス・スペインがニンフェンブルク条約オーストリア包囲する同盟むすんだフランスプロイセンザクセンとも同盟したザクセン選帝侯ポーランド王アウグスト3世ボヘミア継承主張して侵攻した撤退しオーストリア同盟した一方バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトフランスとむすび上オーストリアボヘミア侵攻し1741年12月ボヘミア王として戴冠し、翌1742年には弟のケルン大司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンによって神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠された。しかしハンガリー組んだマリア・テレジア反撃によってバイエルン奪われた。 フリードリヒ2世1742年5月17日コトゥジッツの戦いハプスブルク帝国勝利し1742年7月ベルリン条約シュレージエン割譲認めさせた。 フリードリヒは、士官膝枕仮眠とったり負傷した兵卒の傷の手当てに自らのハンカチ差し出すなど、階級の上下を問わず将兵との交流好み絶大な人気得ていた。

※この「第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)」の解説は、「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の解説の一部です。
「第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)」を含む「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の記事については、「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の概要を参照ください。


第一次シュレージエン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 23:35 UTC 版)

シュレージエン戦争」の記事における「第一次シュレージエン戦争」の解説

詳細は「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年10月20日カール6世死去すると、フリードリヒ2世はすぐに先制攻撃決めて11月8日プロイセン陸軍動員命じ12月11日マリア・テレジア最後通牒突き付けてシュレージエン割譲要求したシュレージエン割譲代償として、フリードリヒ2世それ以外ハプスブルク家領への攻撃を防ぐこと、多額賠償金支払うこと、国事詔書承認することと、神聖ローマ皇帝選挙英語版)でブランデンブルク選帝侯としての票をマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン投じることを提案したフリードリヒ2世返事待たず12月16日プロイセン軍率いて宣戦布告せずに国境越えてシュレージエン侵入した以降1741年1月末までにシュレージエンのほぼ全域占領し、残るグローガウブリークナイセオーストリア3拠点包囲したオーストリア軍3月末にナイセ包囲解いたが、4月10日モルヴィッツの戦いプロイセン本軍敗北したため、プロイセンシュレージエン支配揺るぎないものとなったヨーロッパ諸国オーストリアモルヴィッツの戦い敗れプロイセン軍侵攻阻止できなかったことに勇気づけられ、オーストリアへの攻撃踏み切った。これにより戦争単なるシュレージエンをめぐる紛争とどまらずオーストリア継承戦争発展し以降か月の間、バイエルンザクセンフランスナポリスペイン各地オーストリア領を攻撃するが、フリードリヒ2世イギリス催促仲介もあってマリア・テレジアとの秘密講和交渉開始10月9日クラインシュネレンドルフの密約呼ばれる秘密停戦協定締結した。この密約により、オーストリア講和代償として、来たる講和条約で下シュレージエン英語版)を割譲することに同意したオーストリア自軍を他の敵軍への対処にあて、失地回復し始めると、フリードリヒ2世オーストリア密約履行してシュレージエン割譲応じるつもりがないと判断し協定無効宣言して進軍再開した1741年12月プロイセン軍モラヴィア進軍し首府オルミュッツ占領ボヘミア辺境グラーツ英語版要塞包囲した1742年1月皇帝選挙英語版が行われ、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが(カール7世として)神聖ローマ皇帝当選した2月フリードリヒ2世ザクセン軍とフランス軍とともにモラヴィア経由してウィーンへの進軍はじめたが、フランス軍非協力的態度をとったためウィーンへの進軍計画4月放棄されプロイセン軍ボヘミアと上シュレージエン撤退したオーストリア軍ボヘミアへの反攻試み5月17日コトゥジッツの戦いフリードリヒ2世率いプロイセン軍交戦した敗北した。これによりオーストリア連合軍ボヘミアから追い出す手段持たない状況になり、ブレスラウプロイセンとの講和交渉再開したイギリスからの圧力により、オーストリアシュレージエン大半ボヘミアグラーツ伯領(英語版)の割譲同意シュレージエン南端にあるわずかな領土(クルノフ、オパヴァ英語版)、ヌィサ英語版三公国の一部、およびチェシン公国)のみ維持することとなったまた、プロイセンシュレージエン資産担保にしたオーストリア負債一部肩代わりすることに同意しオーストリア継承戦争における中立維持にも同意した。この合意1742年6月11日ブレスラウ条約採択され7月28日ベルリン条約英語版)で正式に確認された。

※この「第一次シュレージエン戦争」の解説は、「シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「第一次シュレージエン戦争」を含む「シュレージエン戦争」の記事については、「シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第一次シュレージエン戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第一次シュレージエン戦争」の関連用語

第一次シュレージエン戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第一次シュレージエン戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第一次シュレージエン戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオーストリア継承戦争 (改訂履歴)、フリードリヒ2世 (プロイセン王) (改訂履歴)、シュレージエン戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS