第一次シュレージエン戦争
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第一次シュレージエン戦争(だいいちじシュレージエンせんそう、ドイツ語: Erster Schlesischer Krieg)は、1740年から1742年にかけてシュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンとオーストリアの戦争。オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、18世紀中期に戦われた一連のシュレージエン戦争の始まりである。訳の違いからシレジア戦争とも呼ばれるが、本項では「シレジア」は「シュレージエン」に統一している。
注釈
出典
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- 1 第一次シュレージエン戦争とは
- 2 第一次シュレージエン戦争の概要
- 3 結果
- 4 脚注
第一次シュレージエン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:43 UTC 版)
「オーストリア継承戦争」の記事における「第一次シュレージエン戦争」の解説
詳細は「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年、皇帝カール6世が没すると、プロイセン王兼ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世は、皇帝選挙でマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンに投票することを条件にシュレージエン(シレジア)地方のいくつかの領地の割譲を求めた。シュレージエン地方をフリードリヒ2世が求めた背景としては、まず同地方が経済的にも重要なオーデル川を有し、南部ベーメン(ボヘミア)・メーレン(モラヴィア)との境界に軍事的に重要な山脈が位置し、さらに侵攻に際しての後方連絡線の確保が比較的に容易であり、加えてオーストリア軍の勢力が相対的に寡少であると評価したことがある。 オーストリア宮廷が要求を拒否したのに対し、プロイセン軍は、バイエルン・フランス・ザクセンなどの支持を準備して、1740年12月16日、オーストリアの不意を突きシュレージエンに侵攻した。プロイセン軍はいくつかの要塞を除くこの地方の大部分を占領し、冬を過ごす。マリア・テレジアはフリードリヒ2世の侵略に激怒し、主力であるナイペルク兵団を転進させてシュレージエン地方の奪回作戦を企図する。翌1741年3月末にはオーストリア軍はプロイセン軍の根拠地を求めて迂回のために北進し、プロイセン軍は防勢となる。 そこでフリードリヒ2世は決戦することを決心し、1741年4月10日にモルヴィッツでプロイセン軍約2万とオーストリア軍約2万が戦い、火力に勝るプロイセン軍にオーストリア軍は撃退された。この敗北はハプスブルク家に対する各国の介入を招く結果となり、また、新興国であったプロイセンの台頭を効果的に印象付け、プロイセン軍野戦司令部に各国の外交使節が訪れることとなった。こうした経過もあり、同年5月28日にニンフェンブルク条約が締結され、バイエルン、フランス、スペインの3か国が同盟を結んだ。さらに、プロイセン、ザクセンも加わり、オーストリアの西方は包囲されるに至った。 マリア・テレジアは6月25日にハンガリー女王として戴冠した。議会との折衝を経てハンガリーの救援を得たものの、コトゥジッツの戦いの敗北を契機に、1742年7月にイギリスの仲介を得てシュレージエンの大部分とベーメンの1郡をプロイセンに割譲する講和の密約(ベルリンの和)を締結した。
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「第一次シュレージエン戦争」を含む「オーストリア継承戦争」の記事については、「オーストリア継承戦争」の概要を参照ください。
第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)
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「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の記事における「第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)」の解説
戦役の詳細については「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年10月20日、神聖ローマ皇帝カール6世が急逝した。国事詔書によってハプスブルク家領は娘のマリア・テレジアが相続した。フリードリヒ2世はこれを承認する見返りにボヘミア王冠領(ハプスブルク帝国の構成国)のシュレージエン(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の割譲を求めたが、マリア・テレジアは拒否した。フリードリヒ2世は1740年12月16日、宣戦布告することなしにシュレージエンに侵攻した(第一次シュレージエン戦争の開始)。先帝カール6世の遺した国事詔書を反故にしての進軍だった。シュレージエン急襲は成功し、プロイセン軍はわずか戦死22人の損害で占領に成功した。これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。翌1741年4月10日モルヴィッツの戦いでプロイセンは圧勝を収め、プロイセンの台頭を各国に印象付けることに成功する。5月にバイエルン・フランス・スペインがニンフェンブルク条約でオーストリアを包囲する同盟をむすんだ。フランスはプロイセンとザクセンとも同盟した。ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世はボヘミアの継承を主張して侵攻したが撤退し、オーストリアと同盟した。一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランスとむすび上オーストリアとボヘミアへ侵攻し、1741年12月ボヘミア王として戴冠し、翌1742年には弟のケルン大司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンによって神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠された。しかしハンガリーと組んだマリア・テレジアの反撃によってバイエルンを奪われた。 フリードリヒ2世は1742年5月17日コトゥジッツの戦いでハプスブルク帝国に勝利し、1742年7月のベルリン条約でシュレージエンの割譲を認めさせた。 フリードリヒは、士官の膝枕で仮眠をとったり、負傷した兵卒の傷の手当てに自らのハンカチを差し出すなど、階級の上下を問わず将兵との交流を好み、絶大な人気を得ていた。
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第一次シュレージエン戦争
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「シュレージエン戦争」の記事における「第一次シュレージエン戦争」の解説
詳細は「第一次シュレージエン戦争」を参照 1740年10月20日にカール6世が死去すると、フリードリヒ2世はすぐに先制攻撃を決めて11月8日にプロイセン陸軍の動員を命じ、12月11日にマリア・テレジアに最後通牒を突き付けてシュレージエンの割譲を要求した。シュレージエン割譲の代償として、フリードリヒ2世はそれ以外のハプスブルク家領への攻撃を防ぐこと、多額の賠償金を支払うこと、国事詔書を承認することと、神聖ローマ皇帝選挙(英語版)でブランデンブルク選帝侯としての票をマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンに投じることを提案した。 フリードリヒ2世は返事を待たず、12月16日にプロイセン軍を率いて、宣戦布告せずに国境を越えてシュレージエンに侵入した。以降1741年1月末までにシュレージエンのほぼ全域を占領し、残るグローガウ、ブリーク、ナイセのオーストリア3拠点を包囲した。オーストリア軍は3月末にナイセの包囲を解いたが、4月10日のモルヴィッツの戦いでプロイセン本軍に敗北したため、プロイセンのシュレージエン支配は揺るぎないものとなった。 ヨーロッパ諸国はオーストリアがモルヴィッツの戦いで敗れ、プロイセン軍の侵攻を阻止できなかったことに勇気づけられ、オーストリアへの攻撃に踏み切った。これにより戦争は単なるシュレージエンをめぐる紛争にとどまらずオーストリア継承戦争に発展し、以降数か月の間、バイエルン、ザクセン、フランス、ナポリ、スペインが各地でオーストリア領を攻撃するが、フリードリヒ2世はイギリスの催促と仲介もあってマリア・テレジアとの秘密講和交渉を開始、10月9日にクラインシュネレンドルフの密約と呼ばれる秘密停戦協定を締結した。この密約により、オーストリアは講和の代償として、来たる講和条約で下シュレージエン(英語版)を割譲することに同意した。 オーストリアが自軍を他の敵軍への対処にあて、失地を回復し始めると、フリードリヒ2世はオーストリアに密約を履行してシュレージエンの割譲に応じるつもりがないと判断し、協定の無効を宣言して進軍を再開した。1741年12月、プロイセン軍はモラヴィアに進軍して首府オルミュッツを占領、ボヘミア辺境のグラーツ(英語版)要塞を包囲した。1742年1月、皇帝選挙(英語版)が行われ、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが(カール7世として)神聖ローマ皇帝に当選した。2月、フリードリヒ2世はザクセン軍とフランス軍とともにモラヴィアを経由してウィーンへの進軍をはじめたが、フランス軍が非協力的な態度をとったためウィーンへの進軍の計画は4月に放棄され、プロイセン軍はボヘミアと上シュレージエンへ撤退した。 オーストリア軍はボヘミアへの反攻を試み、5月17日のコトゥジッツの戦いでフリードリヒ2世率いるプロイセン軍と交戦したが敗北した。これによりオーストリアは連合軍をボヘミアから追い出す手段を持たない状況になり、ブレスラウでプロイセンとの講和交渉を再開した。イギリスからの圧力により、オーストリアはシュレージエンの大半とボヘミアのグラーツ伯領(英語版)の割譲に同意、シュレージエンの南端にあるわずかな領土(クルノフ、オパヴァ(英語版)、ヌィサ(英語版)三公国の一部、およびチェシン公国)のみ維持することとなった。また、プロイセンはシュレージエンの資産を担保にしたオーストリアの負債の一部を肩代わりすることに同意し、オーストリア継承戦争における中立維持にも同意した。この合意は1742年6月11日のブレスラウ条約で採択され、7月28日のベルリン条約(英語版)で正式に確認された。
※この「第一次シュレージエン戦争」の解説は、「シュレージエン戦争」の解説の一部です。
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