プロイセンの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
5月、普仏戦争終結。日本が戦勝国のプロイセン王国に着目する契機になったが、人材難に加えて国情・国民性の差異が大きいとみられ、フランスを制度や学問の模範国とする方針の変更に至らなかった。もっとも、国民の慢心が敗因とみられたことから、フランスの風俗までは学ぶべきでないと考えられるようになった。 なお幕府の蕃書調所でも蘭語に加えて英・仏・独・露語の科目があったが、1881年(明治14年)に獨逸学協会が設立されるまで、独語を解する日本人は極めて稀であった。
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