プロイセンのベーメン侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)
「第二次シュレージエン戦争」の記事における「プロイセンのベーメン侵攻」の解説
戦争再開にあたって大王が描いていた計画は次のようなものであった。すなわち、プロイセン軍はベーメンを占領して冬営地とするとともに一気にドナウ川まで南進し、バイエルンと連絡をつけ、かつウィーンとカール公子軍の連絡を断つ。フランス軍と皇帝軍は急遽撤退するオーストリア軍を追撃して、迅速な撤退を妨げつつライン右岸に冬営地を得る。イギリス軍が応援に駆けつけるようなら、フランス軍の一部でハノーファーを攻撃し、これを阻止する。冬明け後、すみやかに両軍はベーメン西部かバイエルンにおいて進退窮まったオーストリア軍を挟撃殲滅してウィーンに降伏を迫り、戦争終結に持ち込む。 8月2日、動員されたプロイセン軍9万余は進軍を開始した。プロイセン軍は4つに分かれ、うち3つがベーメンに侵入した。大王軍4万はザクセンの真ん中を横断し、ピルナでエルベ左岸に渡り、以後エルベ川沿いに南下してロボジッツ経由でプラハを目指した。若デッサウ率いる1万5千はナイセ川沿いにザクセン東部を南下し、ラウジッツのツィッタウからベーメンに入ると一旦西南に向かってエルベ川に出、ライトメリッツから大王軍と並行してエルベ川右岸を下り、さらに東進してアルト・ブンツラウ、ブランダイスを占領して北からプラハに向かう。シュレージエンのグラッツから進発するシュヴェリーン軍1万5千はひたすら西進してケーニヒグレーツからエルベ沿いに東からプラハに接近した。上シュレージエンのマルヴィッツ軍2万は、メーレンのオルミュッツに進出して主力のベーメン攻略を援護した。またエルベ川の水運を利用して、各種物資およびプラハ攻略のために用いる重砲を数百の舟で輸送した。 迅速にベーメンに侵入するために大王はザクセン通過を選んだ。ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世は圧倒的に優勢なプロイセン軍の前に抵抗することができず、プロイセンの通行許可の要求を呑まざるを得なかったが、プロイセン軍の通過後ただちにザクセン軍をオーストリア軍との合流に向かわせた。 大王は戦争再参戦にあたって、オーストリアに不当に迫害されている皇帝を救援すると称し、帝国に秩序と平和をもたらすためにオーストリアを討つと宣言して、8月7日、ドーナ伯によってオーストリアに宣戦布告し、また国民に向けて同様の布告文を書いた。オーストリアは、エルザスのカール公子軍にただちの撤退を命ずるとともに、バイエルンに駐屯していたバッチャーニ軍2万をベーメンに急派してなんとか時間を稼ごうとした。マリア・テレジアは再びプレスブルクに赴いてハンガリー貴族にさらなるハンガリー軍の動員を要請した。 8月後半から9月初頭にかけてプロイセン軍は順次ベーメンに侵入しつつあり、8月28日にはライトメリッツを占領、若デッサウ軍と大王軍は会同を果たし、9月2日にはプロイセン軍はプラハ郊外に到着した。プラハは民兵がその過半を占める1万4千の兵によって守られていた。オーストリアはテシェンにおいて、エルベ川に杭を打ち込み舟を沈めて通行を不可能にしていたため、重砲の到着が遅れた。援護のためにバッチャーニは軍の一部を率いてベラウンに進出し、プラハへの接近を図ったが、プロイセンも9月5日、部隊を送ってこれを攻撃させ、バッチャーニはプラハ援護を断念してピルゼンに撤退した。 9月8日に遅れていた重砲が到着し、本格的なプラハ攻城戦が開始された。途中12日にはオーストリアの砲撃により王族の一人フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート(1714年 - 1744年、フリードリヒ2世の義弟ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの同名の従弟)が戦死するアクシデントがあったものの、9月16日、プロイセン軍の猛砲撃に抵抗しかねてプラハは降伏した。プラハ市は改めて皇帝に忠誠を誓わせられ、軍税が課せられた。
※この「プロイセンのベーメン侵攻」の解説は、「第二次シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「プロイセンのベーメン侵攻」を含む「第二次シュレージエン戦争」の記事については、「第二次シュレージエン戦争」の概要を参照ください。
- プロイセンのベーメン侵攻のページへのリンク