プロイセンの台頭とオーストリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:00 UTC 版)
「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「プロイセンの台頭とオーストリア」の解説
ウェストファリア条約により、ドイツの領邦国家には主権が認められた。そのなかで台頭してきたのがベルリンを拠点とし、同条約で東ポンメルンの領有を認められたプロイセンである。18世紀前半の「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフランスから逃亡してきたフランスのカルヴァン派・ユグノーを庇護し国内の産業を育成するかたわら、宮廷費用を圧縮し、また、ユンカーと呼ばれる領主貴族の子弟を高級官僚・将校として採用し、農奴からの徴兵を実施して軍備増強を行った。また、大北方戦争に参加し、プロイセンの版図を拡大した。この戦争でプロイセンは、西ポンメルン、ウーゼドム島、ヴォリン島などを獲得している。後を継いだ息子のフリードリヒ2世は、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世の死後、娘のマリア・テレジアの家督相続の見返りにシュレージエンの割譲を要求し、フランス、ザクセン、バイエルンと同盟を結び、1740年オーストリア継承戦争を起こして、勢力を広げることに成功した。 オーストリアはイギリスとの提携により、プロイセン以外のドイツ諸侯に攻め込まれた領土を取り戻すことに成功したが、マリア・テレジアはプロイセンからシュレージエンを奪回することに執念を燃やした。そこで、ヴェンツェル・アントン・カウニッツの外交政策を採用し、長年の宿敵だったフランスと和解し、ロシアと同盟して反プロイセン包囲網を形成した(外交革命)。ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータと手を組んだので「3枚のペチコート作戦」と呼ばれた。その一方で、プロイセンはイギリスとの同盟によって対抗することとし、1756年、両者の間で七年戦争が勃発した。最終的にはロシアのエリザヴェータ女帝の没後、ドイツ文化に心酔していたピョートル3世がプロイセン側に立場を変えたため、プロイセンは九死に一生を得た形で講和となり、1763年フベルトゥスブルク条約によって、シュレージエンのプロイセン領有が認められることとなった。
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