イギリスとの同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:59 UTC 版)
ブーサイード朝のスルターン・ビン・アフマド(英語版)は甥の死後に政権を掌握し、多数の砲艦と新たな貨物船を加えてすでに強力な艦隊をさらに強化したが、マズルイ家(英語版)からモンバサの支配権を取り戻して、現在のサウジアラビアから広がる運動を阻止し、なおかつペルシャの都市バンダレ・レンゲのQasimi族をオマーンから引き離すために、有力な同盟国を必要としていた。これが可能な勢力として彼が見つけたのが、当時強大な海洋国家であり世界中に版図を広げていたイギリス帝国であった。18世紀後半のイギリスはフランス第一帝政と戦争状態にあり、皇帝ナポレオン・ボナパルトがペルシアを行軍させ、ムガル帝国侵攻の途上でマスカットを獲得する計画を立てていることが判明していた。イギリスとオマーンは1798年の通商航海条約締結に合意した。 アフマドはインドにおけるイギリスの国益を保証し、彼の領土はフランスの影響圏外となった。彼はイギリス東インド会社にペルシア湾で最初の交易所の設立を許可し、イギリス領事がマスカットに派遣された。ナポレオンを破ると同時にイギリスには、1772年に自国で違法と宣告された奴隷制を終わらせるためにアフマドに圧力をかけたかったという、オマーンと条約を結ぶもう1つの動機があった。当時、アフリカからオマーンへの貿易は依然として活発であり、モザンビークからインドへの象牙の供給がポルトガルの過剰な輸出税によって途絶えると、重要な貿易拠点としてのザンジバルの地位はさらに強化された。商人らは代わりにザンジバル経由で象牙を出荷した。オマーンの軍艦は絶え間ない小競り合いで湾を往来していたため、アフマドはそれに気を取られていた。1804年、乗船してペルシャ湾へ遠征に出撃した際、アフマドは流れ弾に頭を撃たれレンゲに埋葬された。
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