スルターン・ビン・アフマドとは? わかりやすく解説

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スルターン・ビン・アフマド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 04:41 UTC 版)

スルターン・ビン・アフマド
سلطان بن أحمد
オマーン帝国スルターン
在位 1792年 - 1804年

死去 1804年
ゲシュム島
子女 サリーム英語版
サイード
家名 ブーサイード家
王朝 ブーサイード朝
父親 アフマド・ビン・サイード・アル=ブーサイーディ英語版
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スルターン・ビン・アフマド・アル・ブーサイーディー1804年没)はオマーンブーサイード朝4代目のスルターン(在位: 1792年 - 1804年)。

即位まで

スルターン・ビン・アフマドはイマームにしてスルターンのアフマド・ビン・サイード・アル=ブーサイーディ英語版の息子として生まれた。1781年初めに彼とその兄弟サイーフはマスカット港を防衛していたアル・ミーラーニー要塞アラビア語版およびアル・ジャラーリー要塞アラビア語版を支配するに至った。マスカット知事が要塞を取り戻そうとしたとき、スルターンとサイーフは町を砲撃した。2人の兄弟は強力なシャイフ・サルカール(Sheikh Sarkar、1781年4月に首都に進軍した)の協力を得た。彼らの父は恩赦に同意し、反抗的な息子達による両要塞の保有を認めた。後に彼は気が変わり、アル・ミーラーニー要塞を取り戻したが、兄弟はその後も数ヶ月にわたってアル・ジャラーリー要塞を保持し続けた。その後に彼らは自身の兄弟サイード・ビン・アフマドアラビア語版を誘拐した[1]。彼らの父イマームは1782年1月マスカットに急行した。ミーラーニー要塞の司令官に対しジャラーリー要塞へ火を放つよう命令し、自らの艦隊を要塞の東側から攻撃に合流させた。その最中にサイード・ビン・アフマドは看守を買収し、脱出に成功した。孤立し人質を失った兄弟は降伏した[2]。イマームはさらなる反乱を防ぐため、サイーフを捕らえ監視下に置いた[3]

1783年、父の死に伴いサイード・ビン・アフマドアラビア語版がイマームに選ばれ首都ルスタークアラビア語版の領有権を得た。スルターンとサイーフはシャイフ・サルカールに対し、王位を手に入れる為シェマル族の協力を得たいと依頼した。シャイフはアル・ジャジーラ・アル・ハムラーアラビア語版シャールジャラムスアラビア語版ホール・ファッカーン(全て今日のアラブ首長国連邦領)を攻略した。サイードは反撃したが、これらの町を取り戻せなかった。しかし兄弟は国外に逃れた方が安全だと感じ始めた。サイーフは東アフリカに行き、同地で領主になろうとしたもののまもなく死亡した[4]。スルターンはバルーチスターンマクラーンウルドゥー語版海岸のグワーダルに逃れた。同地の領主は彼を保護し、グワーダルを与えた[5][注釈 1]

サイード・ビン・アフマドは急速に支持を失っていった。1785年の終り近く、豪族の一団が彼の兄弟カイス・ビン・アフマドアラビア語版をイマームに選んだ。この反乱はすぐに収束した[7]1786年、サイードの息子ハマド・ビン・サイードアラビア語版はなんとかマスカットおよびその要塞を手にした。オマーン内の要塞は次々ハマド側についた。サイードは世俗権力を全て失うことになった[8]。ハマドはシャイフの称号を手にし、マスカットに宮廷を置いた。サイード・ビン・アフマドはルスタークに留まり、依然としてイマームの称号を名乗り続けたが、これは権力の伴わない純粋に宗教的な称号であった。ハマドは1792年に亡くなった[6]

治世

バルーチスタンからオマーンに舞い戻ったスルターン・ビン・アフマドはマスカットを手にした。身内争いを避けるため、バルカーでの会談にて兄弟サイードのイマームとしての地位を認め、またカイス・ビン・アフマドにソハールを割譲した。1798年、スルターンはイギリス東インド会社と条約を締結した。1800年にはワッハーブ派が北部から侵攻し、ブライミのオアシスを占領してスルターンの兄弟カイスをソハルに包囲した[6]

スルターンは1804年バスラ遠征の途上で亡くなった。彼はムハンマド・ビン・ナスル・ビン・ムハンマド・アル=ジャブリー(Mohammed bin Nasir bin Mohammed al-Jabry)を摂政および2人の息子サリーム英語版およびサイードの後見人に指名した[9]

脚注

注釈

  1. ^ グワーダルは1958年パキスタンに売却されるまでオマーン領となった[6]

出典

  1. ^ Miles 1919, p. 279.
  2. ^ Peterson 2007, p. 72.
  3. ^ Miles 1919, p. 280.
  4. ^ Miles 1919, p. 281.
  5. ^ Miles 1919, p. 282.
  6. ^ a b c Thomas 2011, p. 224.
  7. ^ Miles 1919, p. 282–283.
  8. ^ Miles 1919, p. 283.
  9. ^ Miles 1919, p. 304.

参考文献




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