イギリスとの衝突・抗争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > イギリスとの衝突・抗争の意味・解説 

イギリスとの衝突・抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/01 03:24 UTC 版)

ミール・カーシム」の記事における「イギリスとの衝突・抗争」の解説

1763年2月ミール・カーシムイギリス自由通問題の解決策として地元商人だけが不利にならないため、すべての商品関税無税にさせることを決定した。だが、イギリス側は「イギリス人権利守られねばならず、イギリス人以外のすべての商人関税支払なければならない」と主張し関税廃止するという命令撤回されるべきであるとして、イギリス側使者アミャットにこれを伝えさせた。これに対しミール・カーシム怒り、「すべての要求受け入れ余裕用意はあるが、唯一の条件ベンガルからすべてのイギリス人兵士がいなくなることだ」と言い折り合いがつかなかった。 時を同じくして、パトナにあるイギリス工場工場長エリス関税めぐってベンガルトラブル起こして腹いせパトナにある太守要塞攻撃したエリスパトナの町を占拠し略奪ほしいままにしたが、ミール・カーシムすぐさまパトナ軍勢送りその工場焼き払わせ、エリス降伏させた。 これにより、ミール・カーシムカルカッタ帰還する途中のアミャットの船の拿捕命じた。だが、アミャットが拿捕しに来たベンガル太守の船の砲撃命じたため戦闘となり、イギリス船は撃破され、アミャット以下多数乗組員戦死した。 この事件悪化一途たどっていたミール・カーシムイギリスの関係に終止符打ち同年7月7日イギリスミール・カーシム廃位宣戦布告7月10日には前太守ミール・ジャアファル復位決定した。この決定対しミール・カーシムはついにイギリス横暴に対す怒り爆発し、彼はもまたイギリスとの戦争決意した。 こうして、7月19日ミール・カーシムの軍とイギリス東インド会社軍がカトワーで激突する至った(カトワーの戦い)。ミール・カーシムの軍が50,000人を超す大軍であるのに対しイギリス軍ヨーロッパ兵1,000人とインド人傭兵4,000からなる兵5,000人と、ミール・カーシム軍のほうが圧倒的有利だったが、ミール・カーシム軍にはイギリス内通している者が少なくはなく、プラッシーのときと同様に裏切られ惨敗しムルシダーバードイギリス占拠されてしまった。 こののちミール・カーシム何度イギリス交戦したが、いざという時にいつも味方裏切られ敗北続いた。彼は首都ムンガーにおいて、捕虜にした内通者たちに重石をつけ、ムンガー要塞からガンジス川放り投げたその後ミール・カーシム部下のアラブ・アリー・ハーンにムンガー要塞をまかせ、自身パトナに向かうことにしたが、この男もイギリス内通してすぐにイギリスムンガー要塞明け渡したミール・カーシム激怒しイギリス人捕虜女子供に至るまで皆殺しにした。 1763年10月末、イギリス軍パトナ攻めてきたが、ミール・カーシム度重なる裏切り絶望して戦意なくしており、アワド太守シュジャー・ウッダウラ保護を受けるために隣接するアワドへと逃げた

※この「イギリスとの衝突・抗争」の解説は、「ミール・カーシム」の解説の一部です。
「イギリスとの衝突・抗争」を含む「ミール・カーシム」の記事については、「ミール・カーシム」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「イギリスとの衝突・抗争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イギリスとの衝突・抗争」の関連用語

イギリスとの衝突・抗争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イギリスとの衝突・抗争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのミール・カーシム (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS