イギリスとの関係悪化、ネパール人の大量流入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 08:13 UTC 版)
「シッキム王国」の記事における「イギリスとの関係悪化、ネパール人の大量流入」の解説
1874年4月、シケオン王は崩御し、弟のトゥトブ・ナムゲルが王位を継承した。トゥトブ王の代になると、イギリスとの関係悪化が再燃した。 父の代に結ばれた1861年のティタリヤ条約の締結により、シッキム王国は国権を奪われていたが、宗主国チベットはイギリスの帝国主義を嫌っていた。チベットはこの条約を無視し、1887年にジェレプ・ラ峠を越えてシッキム領内で要塞を建設し、兵を送り込んだ。 イギリスはトゥトブ王にチベットの要塞建設について抗議を行ったが、トゥトブ王はチベット・清朝の力を背景にこれを拒否した。イギリスは要塞のチベット軍を撃退したのち、チュンビ峡谷を占拠した。これが1888年のシッキム遠征(英語版)であり、チベット遠征の前哨戦となった。 清朝は事態を重く見て、イギリスとの会談を重ねた結果、1890年に両国の間にチベット及びシッキムに関するイギリス・清国協定が締結された。この協定でチベットとシッキムの国境が定められ(この国境は現在に至るまで変わらない)、イギリスはシッキムの内政、外政を握り、その保護国であることも確認された。 イギリスは行政官クロード・ホワイトをシッキム担当として派遣し、ガントクに駐在して行政を担当した。彼はシッキムの経済基盤たる農業を開発させるため、ネパールから大量の移民を移住させて、農地を開拓させた。その結果、ネパール人が急増、シッキムの人口の大多数を占めるようになり、ひいてはこれが王国滅亡の要因の一つとなった。 一方、トゥトブ王はカリンポンに移され、王権を剝奪されていた。彼はチベットへ亡命を図ったが、イギリスに逮捕、監禁された。その際、首都はトゥムロンから行政官が駐在するガントクに移された。 チベットはイギリス・清国協定の当事者でありながら無視されたため、北シッキムのギャオガンに軍事基地を建設した。イギリスはチベットとの対決を決意し、1902年に出兵して撃退すると、翌年にはチベット遠征が行われ、ラサを占領した。その後、ネパールの首相チャンドラ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナの仲介で、シッキム経由の交易中心地が2ヶ所開かれ、イギリスのチベットとの交易の目的は果たされた。
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