プロイセンの敗北と再建
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「ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト」の記事における「プロイセンの敗北と再建」の解説
1805年、フランスはアウステルリッツの戦いに勝利し、第三次対仏大同盟を崩壊させた。ナポレオンはライン同盟を結成し、これによって彼の覇権はドイツ中部へと及ぶこととなった。これに危機感を抱いたプロイセンは、1806年、第四次対仏大同盟に参加し、フランスへ宣戦布告した。しかしながら、プロイセン軍は10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いでフランス軍に大敗した。敗走の中、シャルンホルストはブリュッヘルの軍と合流した。フランス軍はプロイセン本土まで侵攻し、全土がフランスの制圧下に置かれた。11月5日、ブリュッヘルとシャルンホルストの軍はリューベックで降伏、翌11月6日、マクデブルクでヴァイマール公とグナイゼナウの軍が降伏し、国内のプロイセン軍は消滅した。国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は側近とともにケーニヒスベルクへ逃れた。 捕虜交換で解放されたシャルンホルストは、ケーニヒスベルクへ向かい、レストック将軍の補佐官となり、軍の再建に力を注いだ。1807年2月7日および2月8日に行われたアイラウの戦いは双方痛みわけに終わったが、シャルンホルストは優れた作戦指導を認められプール・ル・メリット勲章を授与された。同年7月7日、ティルジットの和約によってプロイセンとフランスは講和した。講和後、シャルンホルストは少将に昇進し、軍備再編委員会の議長に任命され、本格的に軍制改革に乗り出すこととなった。グナイゼナウ、ボイエン、グロルマンら、彼と意見を同じくする将校たちが委員に任命され、改革の補佐をした。1808年からはクラウゼヴィッツもこの委員に加わった。 シャルンホルストはまずイエナ・アウエルシュタットの敗因を研究した。彼はフランス軍とドイツ軍の軍事力の差は、本質的な組織および指揮統制の質の差であると考えた。ナポレオン・ボナパルトの卓越した指揮と、それに応えるフランス軍の柔軟な軍事編成が勝利を呼び込んだのである。これに対抗するためには、プロイセン軍を根本から変える大改革が必要だった。 当時のプロイセン軍は傭兵主体の軍隊であった。将校は貴族出身者で占められ、平民出身将校には出世の見込みがなかった。これはフランスを除く他国の軍隊でも同様であり、シャルンホルストがプロイセンに出仕する際に貴族の地位にこだわったのはこのためである(それでも、彼は成り上がりものとして、同僚から白眼視されていた)。シャルンホルストの改革の要点はこうした旧弊を打破することにあった。 1808年、軍事に関する事柄を処理する一般軍事部と、その中でも経済に関する事柄を処理する軍事経済部が創設され、シャルンホルストは一般軍事部の部長となった。これによって彼は改革のための実権を手にすることができた。同年8月、プロイセンは義務兵役制度を導入した。ただし、実際に徴兵が行われたのは、フランスとの戦端が開かれた1813年のことである。 1808年12月、一般軍事部と軍事経済部は統合され、軍事に関わる事柄一切を扱う軍事省が誕生、初代軍事相には国王の側近ロトゥム伯が就任した。軍事省は、軍事総務局と軍事主計局の二つの部局に分かれ、シャルンホルストは軍事総務局長として実務にあたった。軍事総務局は、国王の相談役である第一師団、軍の統括を行う第二師団、兵器監査を担当する第三師団の三つの部局から成り立っており、シャルンホルストは第二師団監督(局長)を兼務した。この第二師団が後年の参謀本部の原型となった。また、第二師団は旧兵站総監部と同じ役割のため、第二師団監督は兵站総監と呼ばれた。 1809年、プロイセン軍の編成は諸兵科連合の師団(旅団)を中心としたものに変更された。シャルンホルストは各師団に参謀将校を配属し、中央からの指令の徹底と、作戦行動時の独自性の向上につとめた。また、シャルンホルストは平民(主にブルジョワジー)から積極的に将校を採用した。これは参謀将校の配属で増加した将校の数を補うためであったが、結果的に平民の軍隊への参加を促すこととなった。平民が政治参加を許されないプロイセンにあっては、国政に影響力を及ぼすことのできる軍隊は、平民にとって魅力的な就職先となった。1810年、シャルンホルストは陸軍士官用学校を陸軍大学とし、さらに入学希望者の枠を広げた。 しかし、こうした積極的な改革はナポレオンの警戒を招いた。彼の不興を買うことを恐れたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、シャルンホルストに改革の一時中止を命じた。1811年、フランスがロシア戦役の準備を進める中、シャルンホルストはロシア帝国とプロイセンの同盟を結ぶためにサンクトペテルブルクに向かった。しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は彼が帰国する前にナポレオンの恫喝に屈し、フランスとの同盟を決定した。これに失望したシャルンホルストやグナイゼナウら改革派将校は、プロイセン軍を辞めてシュレージェンに亡命、一部の将校はロシア軍に身を投じた。
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