プロイセンの反革命
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「ドイツにおける1848年革命」の記事における「プロイセンの反革命」の解説
1848年末までには、オットー・フォン・ビスマルクを含むプロイセンの貴族や将軍 (カマリラ: Kamarilla) がベルリンにおける勢力を取り戻した。カマリラは三月の諸事件で敗れたきりではなく、一時的に退いただけであった。 1848年6月14日のベルリン兵器庫襲撃(ドイツ語版)によりカンプハウゼン内閣が退陣した後、プロイセン国民議会と政府の対立により、アウエルスヴァルト(ドイツ語版)=ハンゼマン(ドイツ語版)内閣、プフェル(ドイツ語版)内閣、ブランデンブルク内閣へと相次いで政府が交代した。 カマリラの首相ブランデンブルクとプロイセン国民議会の郊外移転を命じる勅令にプロイセン国民議会が反発し、不服従の構えを見せると、ヴランゲル将軍率いる部隊がベルリンに進軍して旧勢力の復権を図り、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はすぐさま旧勢力に復帰した。11月、国王はプロイセン国民議会を解散し、プロイセン国民議会の草案(ヴァルデック憲章(ドイツ語版))に基礎を置きつつ国王大権を温存する独自の憲法案を提起した。 プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は民主主義的勢力を弱体化するために君主主権の欽定憲法 (プロイセン邦憲法: Verfassung für den Preußischen Staat) を制定し、1848年12月5日に発布した。この新しい欽定憲法下で、プロイセン議会が設置された。邦議会は二院制議会であり、上院に当たる第一院 (Erste Kammer, 後に貴族院に改組) は各州政府により選出された議員からなる一方、下院に当たる第二院 (Zweite Kammer, 後に代議院に改組) は成年男子選挙権に基づき選出された議員からなるが、選挙人会の複雑な手続を経て初めて当選するものとされた。オットー・フォン・ビスマルクは最初の邦議会選挙で当選した。 翌年に推敲が重ねられ、下院議員選挙は成年男子すべてに選挙権が与えられたが、三級選挙法(ドイツ語版)の下、選挙権の価値は納税額に比例し、有権者の80%以上が全議席の3分の1しか左右できないこととなった。
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