フランス革命と反革命、ナポレオンの時代
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「反ユダヤ主義」の記事における「フランス革命と反革命、ナポレオンの時代」の解説
フランスのアルザスでは、1784年、地方領主が徴収していたユダヤ人通行税が廃止され、同年7月にはユダヤ人への農地所有が認められた。これは外国人のユダヤ教徒の排除が目的であり、ユダヤ人の当地の人口を抑制するための政策であった。 1787年、メッスの王立学芸協会は「ユダヤ人をフランスでよりいっそう有益かつ幸福にする手段は存在するか」で論文を公募し、アンリ・グレゴワール神父とザルキント・ウルウィッツのユダヤ人擁護論が表彰された。グレゴワール神父は1789年ジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ウルウィッツは著書『ユダヤ人擁護論』を書いて、ミラボーに注目された。 ミラボー伯爵はドームとベルリンのサロンで親交して影響を受けて、フランス革命でユダヤ人解放を実現した。1791年1月28日、フランス革命中のフランスでは、イベリアから移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン教皇領のセファラディームの職業と居住地が保障された。反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、1791年9月27日にユダヤ人解放令は議決し、11月に発効した。しかし、革命の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった。 フランスの覇権が拡大するなか、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が台頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。ドイツの教養市民はゲーテを例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に当初は歓迎したが、革命後の恐怖政治が現出すると革命を憎悪するようになった。詩人クロプシュトックはフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した。当初革命を称賛したフリードリヒ・ゲンツは1790年にバークの『フランス革命の省察』をドイツ語に翻訳した。プロイセンではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリアでは外国人の入国が制限された。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、アルトワ伯などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった。アルトワ伯はコーブレンツに亡命宮廷をひらき、ラインラントを拠点として反革命運動を策動した。 1791年6月、ルイ16世とマリー・アントワネット国王一家がフランスを逃亡しようとしたが、国境付近で逮捕されたヴァレンヌ事件が起きた。啓蒙君主であった神聖ローマ皇帝レオポルト2世は妹のマリー・アントワネットを危惧し、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行い、フランスに王権復旧を要求した。神聖ローマ帝国とプロイセンの反革命宣言はフランスへの挑発となって、1792年3月1日、フランスの好戦派はオーストリアに宣戦布告し、プロイセンもオーストリアの同盟国として参加して、革命戦争がはじまった。フランスの革命勢力は、外国の反革命勢力を倒し、また「自由の十字軍」として好戦的であり、ジロンド党のブリソは「戦争は自由をかためるために必要である」と演説した。革命側は短期決戦による勝利を期したが、軍の貴族将校の半数が亡命しており、フランス軍は敗退すると、革命派は国王一家がオーストリア・プロイセン軍と内通しているとみなして宮殿を襲撃して国王一家を幽閉する8月10日事件が起こった。また、反革命派1200人が虐殺される九月虐殺が起こった。9月、フランス国民軍はヴァルミーの戦いで傭兵を中心としたプロイセン軍に勝利して、フランスでナショナリズムが高揚した。この勝利によって、革命戦争が革命対反革命の戦争から、フランスの大陸制覇戦争へと性格を変えていった。 1793年1月にルイ16世が処刑されると、ドイツ側にイギリス、スペイン、イタリアなどの反革命諸国家が参加し、第一次対仏大同盟が形成された。フランスは1793年8月23日に国家総動員法を発令して徴兵制度を施行し、史上初の国民総動員体制をもって恐怖政治のもとに戦時下の非常処置がとられた。戦争はフランス軍に有利な情勢となり、1794年9月、フランス軍はオランダへ侵攻し、ネーデルラント連邦共和国は崩壊、1795年1月にはフランスの傀儡国(姉妹共和国)としてバタヴィア共和国が宣言された。バタヴィア共和国ではユダヤ人にも公民権を授与した。1794年から1795年にかけてウィーンでは「ドイツ・ジャコバン派」が処刑された。ゲオルク・フォルスターたちはマインツ共和国をつくったが、マインツがプロイセンとオーストリアの連合軍に占領され崩壊した。 1795年4月、フランスはプロイセンを破り、バーゼルの和約でプロイセンはフランス革命政府によるラインラント併合を承認して対仏連合から退き、ポーランド分割に関心を向けた。これによりオーストリアは単独でフランスと対峙した。1796年以来、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はオーストリア軍を連破し、1797年10月のカンポ・フォルミオ条約によって、フランスはイオニア諸島とネーデルラント、ライン川左岸地区を保有し、オーストリアはヴェネツィア共和国を領有した。これによって、対仏大同盟は崩れ、各地にフランスの衛星国がつくられた。 ナポレオンは征服した土地でナポレオン法典を施行してユダヤ人を「解放」していった。イタリア、ローマ教皇領、ライン地方のユダヤ人は市民権を授与された。他方、以前の身分制度に満足していたアムステルダムのセファルディは市民権を不必要としたがユダヤ共同体も分裂状態となっている。各地のユダヤ人はナポレオンを解放者として歓迎し、フランスはユダヤ人解放者としての名声を確立した。しかし、ナポレオンはユダヤ人はイナゴの大群のような臆病で卑屈な民族であるとして「ユダヤ人の解放はこれ以上他人に害悪を広めることができない状態に置いてやりたいだけだ」と述べ、ユダヤ人の非ユダヤ教化を望み、さらにユダヤ人とフランス人との婚姻を進めればユダヤ人の血も特殊な性質を失うはずだとユダヤ人種の抹消を目標としていた。なお、ナポレオンのユダヤ政策の作成過程では、好ましくない偏見があるので公文書から「ユダヤ人」名称を一掃することが提案されたこともあり、ドイツ諸邦では行政で「モーゼ人(Mosaiste)」が奨励されたが定着しなかった。 1798年、ロシア、トルコが参戦し、オーストリアも戦列に復帰して第二次対仏大同盟が結ばれ、1799年11月、ナポレオンがクーデターによって政権を握った。
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