オーストリアで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)
「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「オーストリアで」の解説
1795年7月30日、マリー・テレーズの母方の従兄の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、マリー・テレーズの身柄とフランス人捕虜の引き換えに同意した。9月、ド・トゥルゼル夫人は娘のポーリーヌとともに面会し、彼女と釈放され[疑問点 – ノート]ウィーンに送られることを話す。この時マリー・テレーズは、ルイ・シャルルが使った部屋を案内した。12月19日、マリー・テレーズが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人とその娘、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出発する。翌1796年1月9日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着する。しかしナポレオン軍が北イタリアで優勢となると、プラハ近郊に夏ごろまで避難した。 ウィーン宮廷では亡命貴族支援とブルボン家再興のため尽力し、フランツ2世はマリー・テレーズを丁重に扱い、手当も与えたが、手紙や面会人を厳しく監視した。しかし、マリー・テレーズは時にレモンの果汁で手紙を書く(あぶりだし)など、非常に慎重に文通や送金を行った。1797年、文通を続けていたド・シャトレンヌ夫人から出産した男児の命名を願う手紙が届き、自分の名前からシャルルと名づけてはという提案を返信したが、皇帝の監視を逃れるためそっけない文面となった。この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍した。 フェルセン伯爵は、マリー・アントワネットがマリー・テレーズのために親類や友人に分散して託した金と宝石を取り戻して相続させようと奔走し、各国の宮廷をめぐった。フランツ2世がそのほとんどを手に入れていたが、1797年2月24日の謁見でフランツ2世は、マリー・テレーズが相続すべき財産の所有を認め、後にその持参金にするとフェルセン伯に答えた。フランツ2世はマリー・テレーズを自分の弟のカール大公と結婚させて、フランスの利権を手に入れようと考えていたが、彼女はブルボン家の叔父が薦める父方の従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選び、ヨーロッパ大陸の味方が欲しかったフランツ2世も黙認した。 ウィーン宮廷では、ナポリ王国出身の従姉でフランツ2世の皇后マリア・テレジアと互いに嫌いあったが、皇帝の妹マリア・クレメンティーナ大皇女、マリア・アマーリア皇女とは親しく、1798年に妹のほうが死去した際にはたいへん悲しんだ。スペイン・ブルボン家のカルロス4世はマリー・テレーズに年俸を与えると同意し、フランツ2世はミタウまでの弔問の旅費を負担すると約束した。トリーア選帝侯クレメンス・フォン・ザクセン(ドイツ語版)から、革命以前に夭逝した弟ルイ・ジョゼフの肖像画とルイ16世が断頭台で着用し血で汚れた肌着を受け取り、それらを持参しミタウへと旅立った。
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