オーストリアからの脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:29 UTC 版)
「カール1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「オーストリアからの脱出」の解説
「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿からエッカルツアウ宮殿(ドイツ語版)に移った。 1919年1月、共和国初代首相カール・レンナーがエッカルツアウ城のカールのもとを訪れた。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった。実際、2月にはエッカルツアウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。 近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった。イギリスから派遣されてきたエドワード・ライル・ストラット(英語版)大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた。これにレンナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった。 3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。 ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。 — 3月24日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅での声明文 この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文はローマ教皇やオーストリア首相の手元のみに送付された。3月27日、レンナーは国民議会に「ハプスブルク家は永久に統治権およびすべての特権を失効する」という法案を提出した。この法案は4月3日に可決され、さらに王冠に基づいた財産のみならずハプスブルク家の私的財産のほとんどが共和国に没収された。わずかに残された財産も、財産税課税のために差し押さえられてしまった。(ハプスブルク法を参照)
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