オーストリアから見た経緯とは? わかりやすく解説

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オーストリアから見た経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 06:43 UTC 版)

第一次ウィーン包囲」の記事における「オーストリアから見た経緯」の解説

カール5世皇帝即位した時の神ローマ帝国は、宗教改革の嵐吹き荒れている最中であった。元々彼自身は熱心なカトリックであったが「神聖ローマ皇帝」という存在自体が「カトリック守護者」という大前提元に成り立っていた。つまりローマ教皇カトリック守護することを前提としてローマ王名乗るドイツの王に帝冠与えるという側面持っていた。 こうしてスペイン国王についで神聖ローマ皇帝の座を射止め自信満ち溢れていたカール5世は、皇帝たる自身の声によって直接説得を行う事によって、宗教改革終息向かわせる事が可能だ考えていた。1521年マルティン・ルター自身ヴォルムス帝国議会招集し、自らの説得行ったカール5世だったが、ルターが自らの信条を翻そうとしなかった結果カール5世は彼を異端宣言し法の保護剥奪ルター派活動絶対に認めないとの立場明確にした。身の危険迫ったルターザクセン選帝侯フリードリヒ3世庇護下に入るが、これが長く続く神聖ローマ皇帝ルター派諸侯対立の始まりであった。彼らルター派諸侯フランス王フランソワ1世援助を受け、カール5世包囲網一翼組み込まれていく。 ところが、オスマン帝国軍バルカン半島への侵攻度合い強めると、カール5世前言撤回しルター派活動容認する立場転化したシュパイアー帝国議会)。もちろんこれは国内対立一時凍結してオスマン帝国の侵攻への防御全力傾けるための方策であり、詭弁近かった実際カール5世オスマン帝国軍ウィーンから撤退をはじめるとすぐさまこの発言撤回している。

※この「オーストリアから見た経緯」の解説は、「第一次ウィーン包囲」の解説の一部です。
「オーストリアから見た経緯」を含む「第一次ウィーン包囲」の記事については、「第一次ウィーン包囲」の概要を参照ください。

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