宗教改革の嵐(1523年-1648年)
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「スイスの歴史」の記事における「宗教改革の嵐(1523年-1648年)」の解説
詳細は「スイスの宗教改革」を参照 宗教改革者のフルドリッヒ・ツヴィングリは元々、1518年にチューリッヒの大聖堂の説教師として招聘された。1523年に始まるツヴィングリの宗教改革運動はチューリッヒ市の政治体制と不可分の政教一致運動でもあった。ツヴィングリの始めた改革運動は他の州にも拡大したが、森林五州とよばれる5つの州は従来のカトリック信仰の保持を表明した。プロテスタント諸州とカトリック諸州は争いを避けようと交渉を繰り返したが、自らの力を頼みとするチューリッヒがプロテスタント陣営の中でも独走気味となった。1529年の第一次カッペル戦争はぎりぎりのところで交戦が回避されたが、ついに1531年の第二次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版)でチューリッヒ軍がカトリック連合軍と激突し、ツヴィングリも戦死した。1531年に和平協定であるカッペル協定が結ばれ、スイスにおいてカトリックとプロテスタントは互いを攻撃することなく共存していく体制を作ることで合意した。ここでは各邦が宗教問題に対応すると決められ、アウクスブルクの和議の先取りとなった。この決定により、西南ドイツ都市と締結していた同盟は破棄されツヴィングリの死(西南ドイツ都市はルター派の影響下となる)とともにスイスが神聖ローマ帝国から分離していく原因の一つとなった。このころ、ジャン・カルヴァンが指導していたジュネーヴが盟約者団の一員として加わった。1560年、森林五州はサヴォイア公国と同盟した(ボロメオ同盟)。 1602年、サヴォイアがジュネーヴを奇襲したが失敗。1604年、森林五州はヴァリスをカトリック側へ連れ戻した。三十年戦争(1618年-1648年)の前菜に、ユグノーと和解したリシュリューがサヴォイアを攻撃した。また、多くのスイス傭兵の血が流れた。三十年戦争で勇名を馳せたスウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍には、多くのスイス人傭兵が参加していた。プロテスタント陣営に優勢をもたらしたグスタフ・アドルフは、スイス人の多勢を占めるゲルマン人とスウェーデン人の祖先を同一視させる政策(古ゴート主義)をとった。この王の死後、フランスでもスイス人の傭兵を得るために同様の政策をとり、スイスの独立を後押しした。三十年戦争の最中、スイスは「武装中立」という立場を初めて公式に宣言した。そして中立を維持するための国境防衛軍として連邦軍が創設された。
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